奈良公園、若草山の山焼きが1月末に行われました。
奈良のこの時期、古式豊かな伝統の行事が目白押しです。
中には、絶対に非公開になっている秘儀や禁足地というものが存在しています。
東大寺の中の秘仏や秘儀についてレポートしていきます。
目次 Contents
国宝 南大門(なんだいもん)
奈良駅から東大寺までは徒歩20分。
国宝の森への入り口は日本最大の山門、南大門です。高さ26m。
両脇に運慶(うんけい)・快慶(かいけい)ら慶派の仏師によって彫られた金剛力士像が参詣者をみおろしています。
南大門は平安時代に台風で倒壊した後、再建された鎌倉時代(1199年)の建築様式で、二階建てのように見える部分を吹き抜けに建てていて現在は立て直しは不可能と言われています。南大門に使用されている二階建てに見える高さの通し柱は18mもの長さだそうですが、そのような一本木は今は採れないからだそうです。
中国の宋から渡ってきた建築仕様である天竺様(てんじくよう)である、「貫(ぬき)」を多用して屋根を堅牢にした造りを持っています。ここには「大華厳寺」の扁額がかかっています。
大仏はなぜ大きい?どうやって造ったかの謎
南大門を抜けると、江戸時代に再建された3代目の世界最大の木造建築、東大寺の本尊大仏が鎮座する大仏殿が見えてきます。
光の化身、宇宙の中心ともいわれる大毘盧遮那仏(だいびるしゃなぶつ)、大仏です。華厳経(けごんきょう)の教主で宇宙の真理を解く仏となった存在のことです。
大仏がなぜ大きいか。それは、華厳経では仏は宇宙と同じぐらい大きいものとされているからです。
多くの人を助けられるように手に水かきのようなものがついています。
宇宙というマクロから、細胞単位のミクロの世界にまで存在する廬舎那仏を表現しています。
聖武天皇が724年即位するや否や、天変地異、天然痘などおきたのですべてのものが繁栄するようにと大仏を作ったといわれています。
大仏の鋳造が始まったのが747年、大仏殿の竣工が758年であり、11年~12年もの歳月をついやした国家プロジェクトでした。
このような巨大な仏像をどのように鋳造したのでしょうね。現在の技術でも感嘆すべきアイデアが詰まっていると言います。
台座の部分から、8段に分けて造った鋳型に流し込んでいったのですが、どうやって造ったのか、そのつなぎ目が非常に精巧ですばらしいというのです。
台座の途中に最初のつなぎ目が見られます。次に大仏に会う時はつなぎ目にも注意したいですね。
修二会(しゅうにえ、お水取り)の謎
二月堂では3月1日から15日までお水取り行事が1300年途切れることなく行われています。大伽藍が二度まで倒壊した際にもこの行事だけは途切れなかったそうです。
この2月堂のご本尊は十一面観音様は絶対秘仏であり、厨子を開けられることはなく誰も見ることができません。
夕暮れ、2月堂の釣り灯籠に明かりがともります。
修二会(お水取り)では人々の罪汚れを修行僧たちがかわって観音に懺悔します。
修二会で最も主要な儀式がお水取りと呼びならわされている行事です。
若狭井(わかさい)という井戸から観音さまにお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式で、全て秘儀のため誰も見ることができません。
天災や疫病や反乱は国家の病気と考えられ、そうした病気を取り除いて、鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽など、人々の幸福を願う行事とされた修二会は、秘密の扉の中に難く守られ、今も日本が続いている力となっているのですね。
十一面観音像が絶対秘仏と言われるワケは、他の秘仏が年に一度は開扉されるのに、十一年観音像の納められた厨子の扉が開くことが一切ないからです。どんなお姿をしているのかと興味津々となるのは皆同じ。そのヒントがミュージアムに残っていると言います。
二月堂の十一面観音絵が残っていそうです。その絵をもとにつくった復元CGを観たのですが、それは神々しいばかりのものでした。
東大寺にのこる変化しないモノの中の変化したものとは
修二会は1300年もの間変わらず行ったのですが、変化したものは二度の倒壊を経験した大仏殿です。
初代と二代目、三代目の大仏殿は少しづつ変わっているのです。
秀吉、家康という権力者たちが東大寺再建にこだわった理由があります。
源頼朝(みなもとのよりとも)が大仏殿を再建した理由
東大寺の大仏は、近世以前のあらゆる民にとっての日本の文化・信仰の象徴でもありました。頼朝が東大寺を再建することによって、日本が乱世を脱し平和になったことを朝廷から庶民に至るまでアピールすることができたのです。1181年に平家の武将である平重衡(たいらのしげひら)の兵火で焼失したものを頼朝が再建に尽くしましたが、1567年三好・松永の戦いで焼失します。
信長による東大寺再建計画と、京都に大仏殿を築いた秀吉のおもわく
大仏を作ってしまうほど、仏教勢力は日本で強力なものとして急速に台頭したと言えます。戦国時代、戦火に巻き込まれる寺や仏像に対して南都の仏教勢力や、その影響力の下にある地元民の反感を抑える目的が、大仏再建に込められた信長の意図だったのかもしれません。しかし、信長が倒れると豊臣秀吉は今度は京都に大仏殿を築きました。
秀吉が京都に大仏を造った理由
秀吉は京都に大仏殿を建設しました。高さ49m、大仏19m。史上最大の大仏と大仏殿でしたが、開眼前に地震で崩壊してしまいました。
栄華を誇った秀吉も、晩年に来てようやく秀頼という跡継ぎを得て、一族の未来に大きな不安を自らの脳裏に育んでしまったのではないかとも思えます。
権力者とはいえ死さえ克服できない。
日本史上最大の大仏、木製金漆塗座像は地震であえなく倒壊し、秀吉は、壊れてしまった大仏の眉間に弓を放ち、「おのれの身さえ守れないのか」と激怒したというエピソードに、影が忍び寄るわが身一族を守り切れないいら立ちが見られます。
秀吉はいまだ権力を盤石にしてはいなかったのです。信長が願った「天下布武」とその後の平和な世の中を安堵するという夢を引き継いだはずの秀吉が、わが子に天下国家を継がせることだけに執着するようになったのです。
京都に大仏を立て、秀頼により再建を試みられても再び倒壊する姿に、おそらくは豊臣家の未来を重ね合わせて見たものも多かったのではないでしょうか。
徳川綱吉による東大寺再建
1709年徳川綱吉により現在の大仏殿が再建されました。30万人工をかけて造られたものが現在に伝わる大仏殿です。
大仏がつくられたときの元来の願いである平和のシンボルとしてつくられた現在のものですが、初代の大仏は厳格な表情をしていたそうです。現在のものは優しい表情に変化しています。
大仏殿も奈良時代の面積は現在よりも大きくつくられていましたが、江戸時代にはそれほど大きな木が取れなくなってい田という理由もあり小ぶりになっていると言います。
東大寺の国宝
創建当時から見守る国宝・八角灯篭(はっかくどうろう)は特別な時に明かりがともされます。
毎日夜8時にならされる梵鐘(ぼんしょう)も国宝に指定されています。
法華堂(三月堂)建物も仏像もすべて国宝。
法華堂の中心に鎮座するご本尊は女神のように美しい仏様です。乾漆不空羂索観音立像(ふくうけんさくかんのんりゅうぞう)。壮麗な姿で、とてもつもなく豪華華絢爛な光の冠を冠っています。
3メートルを超える9体の仏像もすべて国宝に指定されています。1300年前に造られた奈良時代の仏像です。
東大寺の年中行事
普段開かれない窓が特別公開され以外な姿が正月とお盆に観想窓から拝見することができるそうです。
一生に一度は拝みたい大仏様です。行事の時にお参りするのもいいと思います。
1月の行事
1月1日 除夜の鐘 大仏殿初詣 3日まで万灯明
1月7日 修正会 大仏殿で年頭祈願
2月の行事
2月3日 節分会 万灯明 14時~豆まき 18時~星まつり
2月20日~修二会 戒壇院
3月の行事
3月1日~15日 二月堂 修二会 本行
4月の行事
4月8日 仏生会 大仏殿で花まつり、甘茶かけ
5月の行事
5月2日 13時~聖武天皇御忌
5月3日 山稜祭 献茶式
7月の行事
7月5日 法要の後秘仏開扉
7月28日 解除会 茅の輪くぐり
8月の行事
8月7日 大仏様 おみぬぐい 7時半~大仏殿
8月9日 功徳日 およく 万灯明 福引
8月13日14日 19時~21時夜間参拝
8月15日 万灯供養会 19時~21時夜間参拝
9月の行事
9月17日 二月堂 十七夜、十七夜盆踊り 万灯明
10月の行事
10月5日 法要後秘仏開扉
10月15日 大仏様秋の祭り
12月の行事
12月14日 二月堂 8時半~12時 仏名会 千反礼拝
12月16日 良弁忌 法要後秘仏開扉
東大寺の概要
宗派/華厳宗本山
本尊/廬舎那仏
創建/8世紀前半
住所/奈良県奈良市雑司町406-1
アクセス/ JR奈良駅、近鉄奈良駅より奈良交通市内循環バス外回り系統で「東大寺大仏殿・春日大社前」下車、徒歩5分
(画像出典:WIKI)
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