神の事

カンヤマト王朝から欠史時代の倭国大乱へ


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【2024年1月9日校正】
「鬼界カルデラ噴火の後、神々の子孫はアララト山や崑崙山やメソポタミアに移動した」
「神武天皇の先祖は扶余王で、その前はウラルトゥ王で、もっと昔はミタンニ王でありアララト山にも近いスバルを祖地とする」
「神武東征の起点は卒本扶余だった」

このような物語を紡ぎながら神々の子孫が戻り、橿原神宮で「異国の民族・異国の風土」をまとって新しい八州の国の歴史を始めました。

さて、神武東征でカムヤマト王朝が日本に誕生してから、欠史8代の時代があり、魏志倭人伝や後漢書東夷伝に言われる「倭国大乱」時代がきます。
その時「倭国」に何が起きていたのでしょうか。

目次 Contents

カンヤマト王朝の功臣と逆賊

カムヤマト朝は「大陸勢力と均衡を保つ力を持ち、環日本海をまとめる日本を建国する」という計画の元、紀元前4世紀ごろから水面下で動き始めました。扶余を建国し、新羅を建国し、高句麗を建国し、百済を始めいよいよ日本で王朝を建てる時が来ました。
『ホツマツタヱ29 タケヒト ヤマトウチノアヤ』に登場する人物をあげていきます。

タケヒトの家族

たけひと:カムヤマトイワレヒコ。天照大神の子孫であり、日本で初めて統一王朝を築いたとされる。
みおやあまきみ:タケヒトの父。最後のウガヤフキアワセズ。新羅に潜入した昔脱解を仲立ちに海部カモ族の娘と婚姻同盟を結んだ。筑紫に巡幸し10年治めてアヒラ(日向)で神上がり、内宮の子タケヒトに後を託す。日向(安羅?)族の祖
たまよりひめ:タケヒトの母 海部カモ族のタケツミを父とし、大物主コモリの娘を母に持つ。ミオヤアマキミに嫁ぎ、ミケイリ、イナイイ、タケヒトを生む。(鴨族)
いつせ皇子:ミオヤアマキミが筑紫巡幸の際タカ宮を守った第一皇子。タケヒトと腹違いの兄で母はヤセヒメ。神武軍に合流し大和入りの際ひじに矢を受けて命を落とす。
いないい:タケヒトの兄。熊野村の岩楯を超えたところで暴風に合い入水して死亡。
みけいり:タケヒトとイナイイの兄。イナイイと同じく入水して死亡。
あひらひめ:タケヒトの妻。日向県主の娘。タギシミミを生む。(日向族)
たたらいそすずひめ:タケヒトの内宮。事代主の娘。カンヤイミミ、カヌナカワミミ(綏靖天皇)を生む。(大物主)
※登場する氏族:日向族(安羅)、鴨族、大物主

タケヒトの功臣・まつろうもの

あめたねこ:宇佐守であるウサツヒコの娘ウサコをめとり、タケヒトの補佐として日向国の政を行う。アマノコヤネの孫。神武東征の際は宇佐の諜報員として置かれた。(春日族)
うさつひこ:筑紫で誕生したツクヨミの孫 宇佐守。(月神族)(安曇海人族)
うさこひめ:ツクヨミの曾孫でタケヒトの補佐をするアメタネコの妻。ウサマロの母。(月神族)(安曇海人族)
しほつち:タケヒトに大和へ行き、饒速日を討つことを勧めた。昔兄の釣り針を失くして困っているホヲテミを助けた神。(丹波海人族)
あひわけ:アメヒワケ(アメヒワシ)。カミムスビの子孫で、神武東征の論功行賞で伊勢国造となる。元居た伊勢津彦は信濃へ去った。(忌部氏)(渡会氏) 
しいねつひこ(うつひこ):神武東征のとき、海路案内をして日向から宇佐に導いた。また、紀伊半島に入ってからの戦いのときに蓑笠姿の翁に扮して敵陣の中に潜入し香具山の埴を採ってきてご神事をしたことで勝利に導いた。「香久山を制することは大和を制する」ことわざの元。これにより大和国造となる。(宇佐海部氏)(倭氏)
あうえもろ:河内の県主。あうえもろの館でタケヒト軍は軍備を整え、ナガスネヒコとの初戦に備える。(春日族)
にぎはや:大和の中心となった香久山アスカの宮。土着の丹波海人族を吸収して丹波海部を名乗って籠神社を拠点にした十支族。(丹波海部氏)
たかくらした:アスカ宮の右の臣カゴヤマの息子で、アスカの宮に子が無いので養子に入ったが当時の妃に追い出されて熊野で育てられた。神武軍にフツノミタマをもたらし、敵の妖気から目覚めさせた。カムヤマト朝成立のあと、全国を巡る諜報部員(をしか)として働いた後、紀の国造に任命される。10年あまり務めて後をミチネにゆずり新潟へ封ぜられる。後の香語山命。紀氏の後裔に武内宿禰が出る。4世孫建麻利尼は倭6県の一つ、山辺県主(尾張氏)
たけみかづち:神武東征の際、タカクラシタにフツノミタマを取らせて、神武軍をサポートする。武御雷の奥義を娘婿のコヤネに託したので春日大社に祀られる。
やたのからす:翁として現れ、熊野の山からアスカへと導き、神武軍をサポートする。論功行賞で葛野主となる。(山城賀茂氏)
みちおみ:一説に大伴武日の祖ともいう。やたのからすの後に従い、逆らう兄ウカシを討つ。香久山の土をつかってアマテルとトヨケへの戦勝祈願を三日に渡り行った。築坂 クメの守となる。
弟うかし:神武軍の見方につき貢献したので、たけた(宇陀)県司になる。
いひかり:兄ウカシを滅ぼした後、帰順してきた吉野を治める国守。
いわわけ:兄ウカシを滅ぼした後、帰順してきた吉野を治める国守。
しき弟(しぎひこ):倭6県の一つ、磯城県主。分家が倭6県の一つ、十市県主(磯城家)
かんみ孫あめまひ あめまひ曾孫あたね:賀茂県司に。タケヅミを継ぐ(山城賀茂氏)
うましまち:饒速日の子で物部の祖。かたくなに抵抗するナガスネを切り、神武軍に就く。(物部氏)
くしみかたま:八重垣(大物主)
つみは:事代主 えみす神
くしね:ツミハの孫(大三輪)
あめとみ:フトタマの孫。神武の即位式では、星の使い(星臣)として、八重垣剣をクシミカタマ(剣臣)に渡す役目をはたす。ナガスネとは兄弟か?(忌部氏、斎部氏)
つるぎね:葛城一言主の子孫。倭6県の一つ、葛城国造。大和で最も古い勢力(葛城氏)
おしくも:アマノコヤネの子でタケミカヅチの孫。鏡臣
たけちのこり:アマノコヤネの弟か子。倭6県の一つ、層富(添)県主 (たけちのこめ:倭6県の一つ、高市県主 同一人物か?)
※登場する氏族:中臣氏、宇佐氏、丹波海部氏、倭氏、春日、尾張氏、宇陀、磯城、葛城氏、山城賀茂氏、物部氏、大三輪、忌部氏

タケヒトの逆賊・まつろわぬもの

ながすね:饒速日より以前から大和を治めていた。アスカ宮の左大臣を務めていたフトタマの孫で、妹は饒速日の妻。東北に逃れてアラハバキ信仰の元を作ったとされる。子孫に阿部氏がある。
なぐさのとべ:紀州海南市付近の女首長。生駒山で倒れたイツセをこの地で弔らおうとしたところこれを拒み撃退し、神武軍は熊野へと廻ったという。最後は戦いに敗れて死んだ。子孫に小野田氏がある。後に名草の子孫が倭6県の一つ、山辺県主の県主になる。
にしきど:にしきとべ。女首長。誅したとき怨念に取りつかれ、その妖気で神武軍は眠らされる。
兄しき:かたくなに抵抗した磯城県主であった。
かたきあかし(こせのほふり):敵対した葛城国の元国主。
そふとべ:帰順することを拒み、退治された層富(添)の元の女県主。
いのほふり:帰順することを拒み、退治される吉野の元の国守。
つちぐも:帰順しなかった穴師や辺境の民
たかおわりべ:身の丈が低く、手足が長く、大力で、穢気を放って手強かった民。

カムヤマト王朝初期に存在した豪族と活躍した氏族

カムヤマト王朝が建つ以前から存在していた豪族(国)の素性について調べます。
カムヤマトイワレヒコが東征する以前、紀元前5世紀ごろから目立って渡来人が増えてきた様子を述べてきました。
中華で国を作っていた王家が渡ってきている以上、そのころから、あるいはもっと前から同じ言葉を話す集団で王を立てていたことでしょう。

また、カムヤマト王朝を建てようと画策し、誘導した人々いたと考えられるわけですが、紀元前3世紀ごろにやってきた集団が日本で地ならしをしました。
日本に王朝を建てるためのリーダーがキングメーカーの呂不韋ということになります。徐福は呂不韋の計画の実行部隊で、呂不韋の金で実際に動いた秦氏族の元です。

秦氏の諜報活動

カムヤマト王朝を建てるために呂氏の計画をもとに徐福に率いられて日本へ潜入した人々がいます。3000人で秦を離れて移住をし先進文化と技術を日本にもたらしました。
出雲口伝によると徐福は三度日本へやってきて国を蹂躙したといいます。最初はスサノオとして、二番目はホアカリとして、三番目はニギハヤヒを名乗ったとされています。そして、先住王家の娘を娶り婚姻同盟を結ぶのですが、二人の王であった事代主命と少彦名尊を殺したと伝えるのです。この事件により出雲族の一部は大和へと移住しその子孫がナガスネヒコだという伝説です。その中で徐福の野望として日本に王国を建てる目的でやってきたということが語られています。
伝説の中からわかることは、秦族が日本へやってきたときすでに王国が存在していたということです。インドから渡ってきたドラヴィダ族の国で、それが出雲王国とは云いますが、今の出雲地域かどうかは不明です。
また、富士王朝の歴史を口伝で伝える不二阿祖山大神宮神官から聞き取った内容を徐福がまとめ宮下文献をしるしたということが伝わっています。富士王朝があったことが前提の伝説です。

熊野で徐福が持ってきたとされるすり鉢や秦の貨幣が見つかっています。新宮市に徐福の墓があります。
福岡県八女市に徐福がたちよった伝説があり、「童男山ふすべ」という伝統行事が残っています。
京都府伊根町では人々に慕われ徐福がしばらく居住したことが伝わります。(徐福=ホアカリ伝説のもと?)
蓼科に住んでいた時双子を生んだとあります。鹿児島から秋田まで多くの地域に徐福伝説が残っており、おおむね肯定的なものです。その土地土地に徐福の子孫が暮らしていることを物語るのかもしれません。徐福及び3000人の男女や職能集団の働きが、カムヤマト王朝を建てるための諜報活動であったとしたならば、広い範囲にまたがって情報を集めるだろうことは想像に難くありません。

呂不韋は集めた情報の中で、日本列島の中心となりうる大和地方にカムヤマト王朝を拓くにあたり、何を最初に取り組むべき問題としたでしょうか。
それは、一つにはカムヤマト以前に日本に入っていたもう一人の天孫ホアカリの子孫を冠する者が大和にすでにいて、王位争いが起きるだろうことと、大和地方に進出した出雲王朝の子孫が幅を利かせていたことでした。

アマツマラ系海人族

呂不韋が最初に取り組んだのは、ホアカリの祖地といえる宮津市周辺を取り込むことでした。この辺りの漁師の間には「南方から来た海人族が祖である」という伝承があります。この地に到着した天孫ホアカリの斎船の船長はアマツハバラ、舵取りは甥のアマツマラでした。このように船を操る海人族が当地に暮らし根付いていったと考えられます。アマツマラの子孫は物部連、阿刀連となるのですが、それはニギハヤヒーウマシマチがカムヤマトに政権を譲った後のことになります。

徐福はホアカリ一団のテリトリーにある伊根町に腰を下ろしたといいます。徐福の来意を不審に思う村長(むらおさ)に、徐福が渡来の目的や秦の都咸陽宮のことなどを
詳しく語ったと書き残されており、「九節の菖蒲と黒茎の蓬が不老不死の妙薬」であることや「丹後奥郡澄之江の里(奥まった入り江の中にある里)は、龍宮城と同所にして異名なり」と言ったと新大明神口碑に記されているといいます。現地の海人族と、すんなり溶け込んでいる印象です。

その時代から1000年ほど昔に、当地に降臨したアクエンアテン=ホアカリには共同統治者がありその名をスメンクカーラーといいます。アクエンアテンとは多神教から一神教への宗教革命を起こし、出エジプトを為したエジプトのファラオです。スメンクカーラーは乗船するアクエンアテンと別れたあとヘブライの民とともに移動し、イスラエル建国や南北に別れたりアッシリア捕囚となるなどの苦難の末の解放経験をしながら東へと散っていきました。彼らは時代とともに景教徒となり中華にも浸透していきました。始皇帝や徐福は景教徒だったともされています。徐福の船でともにこの地にやってきたのがスメンクカーラーの子孫で、北イスラエル人となっていたニギハヤヒ族だったのです。日本へやってきたとき、もともとエジプト王族であった正統性はあるわけですから、ホアカリを祀る海人族とも調和し、ニギハヤヒはホアカリの祭祀を代々継承しました。

ホアカリの跡を継いだニギハヤヒ族は大和入りしており、十種神宝という璽をもって出雲王朝の末裔との婚姻同盟を結んで定着しました。そこへカムヤマトの一団が乗り込んできたのです。しかし、ニギハヤヒは早々にカムヤマト王に服属することを決めてしまいます。ニギハヤヒと徐福が通じていたならば当然のことです。カムヤマト王朝を推進する徐福一派なのですから。ニギハヤヒはすんなりとカムヤマト王に大和を譲りました。その交換条件なのか子孫は物部を代々継ぎ、左大臣右大臣を兼ねる食国臣を独占し、強大な権力を握ります。ホアカリの船を操縦したアマツマラの子孫は阿刀連になっていきます。

和珥族と賀茂族と安曇族

ホツマツタヱに登場する船魂の初めはシマツヒコです。その息子がオキツヒコで、その息子がシガといいます。彼らは志賀海(対馬海峡 玄界灘)で活動していました。シマツヒコは川で船に竿さして操縦する術を得ました。オキツヒコは鴨に倣い、櫂で漕ぎ流れをさかのぼる鴨船を作りました。シガは帆を立てて風に乗って航行する高速のワニ船を作ったということです。船の歴史は相当に古く、38000年前にはすでに神津島と本州を船で行き来していたことがわかっています。そこは太平洋を渡る外洋でもあり、少なくとも鴨船か、ワニ船以上の装備を備えた船を日本の海洋民たちは操っていたでしょう。シガはワニ船を作ったので子孫が和珥氏を名乗ったのではないのかなという気がします。祖神は相当に古い氏族とみなされます。シガの5世孫にカナサキがいます。カナサキ(後の住吉大神)はゆったりと沢山の荷を積むことができるカメ船を作りました。いわゆる商船であり、海賊から身を守るための軍隊も同乗していたものです。これは、地中海を颯爽と航行し、アジアまで船団を操って交易をおこなっていたタルシシ船のような船だと考えられます。夫が皇位を継ぐ時、先にワニ船で急いで都に向かうあとを追いかけて妊婦のトヨタマヒメが使用した御用船がカメ船です。

カモ船の流れが賀茂氏へ。小回りが利く軍船を操り戦います。
ワニ船の流れが和珥氏へ。風を利用したので外洋向きの船です。外国や遠い島との連絡に長けています。
カメ船の流れで船魂族を取りまとめたのが安曇族で、宇佐海部氏や潜水を得意とする宗像氏も属します。物資や多くの人を運ぶ交易船や交易活動の宰です。安曇氏は、筑紫を拠点とする海神族全体を取りまとめる氏族です。

カムヤマト王は日向からウツヒコが操るワニ船に乗って宇佐に到着します。宇佐にいた海部族は管轄内だったということです。ウツヒコは東征の論功行賞で大和国造になって倭氏を名乗ったようです。シガの子孫であるウツヒコはカンヤマト王朝草創期の功臣だったのです。和爾氏がいつ誕生するかと言えばもう少し後のことになります。

海神(わたつみのかみ)を祀る海神族は、ホヲテミの妃にトヨタマヒメを輩出します。その子孫がウガヤフキアエズとなり、トヨタマヒメの弟カモタケヅミの娘がウガヤの妃となります。そこで生まれたのがカムヤマト大王となります。大王の叔父が賀茂氏の初めということになります。論功行賞で山城国主となります。

カムヤマト王の大和入り準備をした宇佐海部氏(あまべし)

カムヤマト王が大和で王朝を拓くように促したのはシホツチとされています。
新羅の宰相である昔脱解は丹波出身の倭人だとされていますが、つまり、丹波海部氏出身なのです。丹波海部氏といえば、祖はホアカリ船団の舵取りをしたアマツマラです。北イスラエルのニギハヤヒ族がホアカリを継いだ時に血統が入れ替わりますが祭祀を継いで天孫族に仕えています。彼らは徐福の息がかかっていて、呂不韋の描くカムヤマト王朝を実現するための諜報部員なのです。昔脱解は生まれたばかりの新羅に潜入し、カムヤマト王族を日本に送り込む工作をしていたのです。昔脱解の時代に秦人が多く新羅に逃げ込んでいたし、倭人も100隻余りの船で侵入していました。それらの動きはすべて呂不韋の計画のうちだったのでしょう。
カンヤマト王の父に日本へ行くように勧めたのは、この丹波海部氏の昔脱解でしょう。彼は、呂不韋や徐福の手の秦人と、受け入れ側の倭人を警護団として、ウツヒコの船で宇佐へと渡っていったのです。この時、ウツヒコと面通しをしたのがアヒワケでした。おそらくはカンヤマト王の父が卒本扶余時代からの腹心だったのではないかと考えられます。アヒワケは忌部氏の祖とされます。カムヤマト王には貊族の血が流れているのです。そして遠い租を辿れば天孫族なのです。

朝鮮半島を出発するとき、橋渡し役を担ったのが丹波海部氏で、カムヤマト王族を宇佐海部氏へ送り届けました。ツクヨミが誕生し、その孫であるウサツヒコの系譜が祭祀を継ぐ前の宇佐では、潜水海人族であるムナカタが守を務めていたようで、宇佐神宮奥宮で三女神とともにその母親たちが蟄居したといいます。宇佐は月神の系譜を継いでいます。そしてそこに暮らす人々は海に潜りアワビなどを採集していたそうです。呂不韋や徐福の一団がやってきたときに、この地形が気に入って居住したといいます。もともといた宇佐の海人と呂不韋とともにやってきた海人族は同化していったのではないかと思われます。
始め佐伯周辺にいた人々はリアス式の海を求めて北へ移行し宇佐で海人の棟梁海部氏(あまべし)となって、島根、丹後、丹波へと移動したということです。
宇佐も丹波もツクヨミの影響の強い地域ではあります。日本神話の中で影が薄いツクヨミですが、月神族の日本帰還との関係が示唆され興味深い関係にあると感じます。

大伴氏

神武軍が熊野から上陸して眠りから覚めた際に、ヤタガラスの導きに従って先頭を進むのがミチオミです。
大分の湯布院の守護神であるウナギヒメは、力自慢のミチオミに命じて湯布院盆地に広がる湖の一片を蹴破らせて、大分川としたという伝説が残っています。土木・灌漑工事の名手だったと見えるミチオミを祖とするのが周辺を拠点とした大伴氏です。
呂不韋とともに九州入りし、せっせと灌漑工事を行っていただろうことが想像できます。ミチオミ族は、カムヤマト王が宇佐にて隊を整えている際に合流したものと見えます。カムヤマト王に随行し橿原宮の近くを所領として与えられました。

大和入り後にまつろった豪族

カムヤマト王が大和入りする前に話がついていたと考えられるのがニギハヤヒ族で、皇位を譲る代わりに物部氏として政権に深くかかわる流れになっていきます。
その他にもアウエモロという春日県主は、味方に付きます。アウエモロの正体は不明ですが、アマノコヤネと姻戚関係があるようです。

月氏族と尾張氏、そして丹波海部氏

タカクラシタは神武東征の際ニシキドの妖気に眠らされた神武軍をフツノミタマにより回復させたことで有名ですが、ホツマツタヱではカゴヤマの子であり、祖母に三女神の一人タギツヒメを持ちます。カゴヤマはホアカリの右の宰相を務めており、ホアカリの子が無いので養子になったのがタカクラシタでした。しかし、カゴヤマとホアカリの妃の折り合いが悪かったのか、妃に追い出されて熊野で育ちました。カムヤマト王朝が成立した後は全国を巡る諜報部の取りまとめ役を担っています。任務を終えると紀国造につき、その後を妹婿のアメノミチネに譲って新潟へ移ります。しかし、ここまでの流れではタカクラシタが海部氏と直接接触する場面は見られません。なぜ尾張氏の祖となっているのかも不明です。接点はと言えば、一度はホアカリの養子となりアスカの宮の跡取りとなったことです。

【国統べ絵を描いたタカクラシタ→紀国造】
タカクラシタは全国を巡って不満因子を平定する役割を担い諜報活動を行い一次情報を集めてとりまとめており、越後までを九州四国を含めて巡って調査し、国を統べるための計画(くにすべ絵)を神武に提出したので紀国の国造となり大連(おおむらじ)をタカクラシタは与えられました。

くにすべ絵に入れていない膨大な情報もあったことでしょう。紀国造タカクラシタは後任のミチネに紀国奥義を伝え、9代紀氏ウチヒコの娘を母にもつ武内宿禰の活動に紀国奥義は多大な影響を与えたと思われます。武内宿禰は景行天皇の代に東北方面の情報を集める任務を受けて「蝦夷平定すべし」との重大な結論を導き出している人です。武内宿禰の孫、平群眞鳥が『竹内文書』を記し「世界の中心地・日本」の概念を現代に残したその人であり、地球文明計画の片りんを見せているという不思議を感じます。

【黄金移管のための大陸航路、飛び地の食国臣(けくにおみ)】
タカクラシタはカムヤマト大王の妃の一人をもらい受けて紀国を出て弥彦へ行きました。東北にある王国ににらみを利かせる地域が弥彦神社です。その意味では太平洋側の鹿島神宮が東北の蝦夷ににらみを利かせているといわれ同じ役割が考えられます。東北との境目に防衛線を張るために、タカクラシタの系譜は滋賀へ、岐阜へ、尾張地方へと展開したのでしょう。時代を経て武内宿禰が東国征伐を進言し、ヤマトタケルが東征に向かいます。ヤマトタケルの妻の一人に尾張氏の娘がいますが、ヤマトタケル東征前の、この時代のカムヤマト王朝の終わりの地域が尾張だったのです。尾張の妻が生んだ子はサエキとタケダと伝わります。東征はおおむね成功するのですが、イブキ神の一撃で病を得てヤマトタケルは亡くなったとされています。イブキ神は蝦夷の国との境目にあるとみられます。ここでヤマトタケルは歴史から退場していますが、尾張氏から出たサエキから、黄金の採集保管する姥人との関係が透けて匂いだします。

新潟という地域は糸魚川という翡翠の産地、金の産地を抱える要所であり、朝鮮や中華を経ないで大陸と直接行き来できる位置にあります。この地の海路を含め開発を任されたのが老境にあるタカクラシタだったのではと思い至ります。紀国が管轄する茅渟海(和泉から淡路の間の海)をタカクラシタに仕切らせたのです。茅渟海の仕切りが済んだので、新潟へ派遣されて越佐海峡の仕切りと大陸への航路開発を進めたのではないかと疑われるのです。国を統べる絵図を作成する人、それがタカクラシタなのです。

タカクラシタの3世孫にオキツヨソという人物があり、第5代孝昭天皇の食国臣という右大臣と左大臣を兼ねる任に就いています。ちなみにその時代は食国臣が二人いて、もう一人はニギハヤヒ3世孫のイズシココロが務めています。そもそもカムヤマト王朝時代はニギハヤヒの子孫が食国臣を独占していたので、オキツヨソは例外と言えます。なぜこの時代だけ二人の食国臣がいたかと言えば、海の向こう側の飛び地を統治していたからではないかと考えられます。オキツヨソという名からおそらくはオキツヨソが大陸・半島統治の、イズシココロが列島の食国臣に任じられていたのではなないでしょうか。その後列島ではオキツヨソの系譜は途絶えていますから、金官国などの宰相などとなったのかもしれません。

【帰ってきた月氏族の遺伝子タカクラシタ】
タカクラシタは、ホアカリの右の臣を務めたカゴヤマを父としています。カゴヤマの祖先は大山祇命であり、宮下文献によればツクヨミの子です。ツクヨミの子には大山祇命を筆頭に山の神々が名を連ねます。だとすれば、タカクラシタはツクヨミの遺伝子を持つということになります。宮下文書にあるツクヨミが宮をもうけた場所は崑崙山麓のカシュガルであり、そこに住みついた月神族は月氏と呼ばれました。月氏は山岳系の遊牧民で、バビロニアでカッシート王朝を拓きます。紀元前14世紀ごろのことです。そのころ同盟を結んでいたエジプト第18王朝のファラオであるアクエンアテンが日本へ移動する同じ時期に姿を消した二人のカッシート王族の一人が、アクエンアテン=ホアカリに同行したカゴヤマだとして、タカクラシタにはツクヨミの子孫=カッシート(月氏)の血が流れており、アクエンアテンとともに日本に帰還した月神族という説が成り立ちます。
ホツマツタヱによるタカクラシタの出自は、父をカゴヤマとし祖母に宗像三女神の真ん中のタキツヒメがいます。富士山麓に勢力を持った家であり、アマテルカミの内宮であるセオリツヒメもこの家系から出ています。セオリツヒメと言えば祓戸大神の筆頭であり、皇や高天の周囲から穢れを払う働きを務めています。宗像三女神も列島周辺の海域に結界を張り巡らせるように配置されています。

ツクヨミは見えない世界を統べる神であり、日本的な陰陽道の祖ともいえる神です。その血を受け継いでいるとしたならば、タカクラシタが皇の諜報員として熊野で教育されるのも納得の人事といえます。

【出来レースだった神武東征】
タカクラシタは一旦ホアカリの養子となりますが、ホノアカリの二番目の妃であるトヨマドの娘(左大臣フトタマの孫娘か?)であるハツセ姫に臣下の子と憎まれて追い出されたとされます。タカクラシタは幼少期から神武軍にフツノミタマを奉献するまで熊野で育ちます。その後ホアカリは後継者がないまま崩御し、跡目をニギハヤヒが継いだということです。ニギハヤヒは徐福と通じており、天孫の血を引く北イスラエルの一族で、アマツマラを祖とする丹波海人族を配下に引き継ぎます。ニギハヤヒの妃にフトタマの孫娘のミカシヤヒメを出しており、フトタマの押しの強さが見られます。しかし、かねてからの密約があったのかフトタマの孫とされるナガスネをニギハヤヒは排除してカムヤマト王に政権を委譲する形となります。

権力欲の強そうな左大臣フトタマを差し置いてタカクラシタをホアカリの養子に出した右大臣カゴヤマだったわけです。追い出されたタカクラシタが育った熊野といえば八咫烏の根拠地であり、タカクラシタも八咫烏としての任務をもって事に当たっていたとすれば、諜報員としての行動範囲の広さと影響地域に少し納得がいきます。こちらもまたカムヤマト軍に加勢するわけですから、「神武東征」という大和統一の出来事は出来レースだったと考えるのが妥当かと思えます。

諜報員としてのタカクラシタは神武天皇の下で活躍し、尾張地方を固めることと、大陸航路開拓を任されたのです。中国や朝鮮を通さず大陸とつなぐ航路開発は、皇の黄金を列島に移管するために必要だったのです。
タカクラシタ3世孫のオキツヨソは、新羅に潜入した皇子の食国臣として働き、孝元時代に動き出す皇の黄金移管に深く関係していることが匂ってきます。

【尾張氏と丹波海部氏の誕生】
祖神ホアカリの養子となったタカクラシタの4世孫タケヅヅクサに後継ぎがなく、養子にニニギの4世孫でニギハヤヒの甥に生まれたタケトメが入り弥彦の祭祀を継いでいます。7代孝霊天皇時代のことです。タケトメの子に尾張氏の祖となるタケダオリや丹波海部氏の祖となるタケタセがいます。

月氏族タカクラシタの系譜は弥彦5代タケツツクサまで続きます。
その後ニニギの4世孫でニギハヤヒの甥として生まれたタケトメが入り弥彦の祭祀を継ぎ、月氏族からニギハヤヒの血に入れ替わったということになります。ニギハヤヒの遺伝子を受け継いでいるタケトメの孫オトヨが熱田神宮の摂社上知我麻神社に祀られ尾張氏の祖となっています。

尾張氏と同じくタケトメの子タケタセの系統が籠神社の海部氏へと系譜をつなぎます。丹波海部氏の正当性はホアカリの十種神宝の祭祀を継いだことにあるので、ホアカリを継いだニギハヤヒが祖である必要があります。ホアカリのY遺伝子が引き継がれているかどうかは歴史上では不明ですが、ニギハヤヒが天孫族であり十支族ある可能性は高いとみられます。
尾張氏も丹波海部氏も月氏族の弥彦祭祀を吸収して、ホアカリの系譜を継いだニギハヤヒの血統に入れ替わった氏族だということです。

丹波海部氏は香語山命(タカクラシタ)の遺伝子ではなく、ニギハヤヒに直結しています。香語山命の妻とされるのはホヤヒメで、ニギハヤヒの娘となっており、ホヤヒメを通して丹波海部氏はタカクラシタとつながっていることになっていますが、ホツマツタヱではタカクラシタの妻はイスキヨリヒメであり、元はカムヤマト王の妻でありながら、子のタギシミミが横恋慕して「ユリヒメ」としてつながっていたと語られています。ユリヒメ=イスキヨリヒメであり、カムヤマト王の養女としてからタカクラシタに降嫁させたのが本来でありホヤヒメという架空の人物を差し入れてタカクラシタとニギハヤヒの関係を無理やりつなぐ系図を作成したと考えられます。
系図をつなげた理由は、月氏族の弥彦奥義を吸収合併してニギハヤヒ族の勢力を盤石にすることです。

エフライム族と物部氏

物部氏はウマシマチを祖としており、その父はニギハヤヒとなっています。
以前、エジプト第18王朝の王アクエンアテンの共同統治者だったスメンクカーラーは、シナイ山まで逃げ、その後ヘブライの民とともに過ごしたというお話をしました。
そのスメンクカーラーがニギハヤヒ族の祖となったのではないかと思えるのですね。

日ユ同祖論で、イスラエル人の日本帰還については様々議論され、アミシャブの調査も進んでいるようなのですが、自分として腑に落ちていないので頭と潜在意識・アカシックレコードを整理する意味で探りを入れていきます。

スメンクカーラーはアクエンアテンとともに紀元前1334年ごろに姿を消しています。もちろんミイラも見つかっていません。そのほとんどの素性が明らかになっていないのですが、実在性は認められている不思議な王と言えます。
スメンク・カー・ラーとは「太陽神の魂を活力にする者」という意味だそうです。ちなみにニギハヤヒは、日の出の神です。
スメンクカーラーの肖像には若き少年王の面影が見えます。彼はアクエンアテンの娘を妻としており、仲睦まじさが壁画から漏れ出ています。
ここでは、アクエンアテンが海路を日本へ向かった時、スメンクカーラーはヘブライの民とともに、ヘブライのリーダーとなってカナンの地を目指したとして進めます。

モーセから託されてヘブライの民を導いたのはエフライム族のヨシュアでした。
ヨシュアの死後イスラエルは士師による導きの時代が200年~400年ぐらいあり、イスラエル王国の初代サウル王へと続きます。ユダ族のダビデ王、ソロモン王と続いたあとイスラエル王国は二つに分裂します。北イスラエルはヤロブアム2世がエフライム族であったため紀元前746年ごろからエフライム王国と呼ばれるようになります。エフライムとはヤコブの末子ヨセフが兄弟によりエジプトに追いやられた後にエジプト人との間にできた二人の子の弟ですが、ヤコブの養子となり、その父に最も祝福された人です。北イスラエルでイエフという名君を出した時代をイエフ期といいます。ヤロブアム2世のときに最盛期を迎えますが、跡を継いだゼカリアは家臣に殺されてイエフ期は終焉します。

ここでよく言われる十支族の日本帰還ルートを参考に挟んでおきます。
紀元前660年にアッシリア捕囚から逃れたエフライムの王族・貴族の一団が神武天皇や主要豪族となった。
紀元前2~3世紀、秦の始皇帝の命で日本にやってきたとされる徐福は秦氏の祖であり、景教徒であった。
紀元4世紀ごろ、景教徒に改宗した人々が弓月国を建て、キルギス、朝鮮を経由して日本に入った2万人ほどの秦氏集団。
水耕稲作を始めたミャオ族と漢族はヤペテの子孫であるというミャオ族の伝承があり、日本に来ているイスラエル人もヤペテの子孫。

エフライム王国イエフ期が終わる紀元前745年ごろ、ゼカリアは死んでおらずイスラエルの地を脱出したとしたらどんなルートが考えられるでしょう。
ソロモン王のときに築いた外国とのタルシシ船などによる交易での莫大な富や、銅の採鉱や金属精錬など大きな事業をイスラエル王国も継承し経済基盤としていたでしょう。海路交易ルートを使って日本へと向かったのではないでしょうか。そして紀元前740年頃に日本にたどり着き、国東半島にやってきました。昔、タルシシ船の船長をしていたエブス人が王を務めていた国がありました。エブス人の東地中海地域での拠点はエルサレムにあり、イスラエル建国時に国を追われた形になりますが、今は昔のお話として、同郷ともいえるヘブライ王家とエジプト王家の血が流れるゼカリアの子孫を受け入れたのです。

ゼカリアの子孫はそこから、後のカムヤマト王が移動したように瀬戸内海を移動して河内から畿内に入ります。
畿内にはすでに有力豪族がいました。特に武力が秀でていたのがアスカの宮の元左大臣フトタマの孫とされるナガスネヒコでした。ヘブライ王家とエジプト王家の血が流れるゼカリアの子孫が徐福とともに畿内に入りニギハヤヒと名乗り、アクエンアテンとともに共同統治した自身の祖先からの経歴を縷々披露して照合しアスカの宮の祭祀を継ぎました。代々アスカの宮に仕えていたナガスネヒコを臣下に起きます。ナガスネはニギハヤヒに妹を嫁がせて大和の地を守ったのです。

カムヤマト王が大和入りした際には、ナガスネヒコが「こちらには十種神宝という御璽があり正統であるのに、なぜ国を奪おうとするのか」と強情に対抗姿勢を貫きました。しかし、ニギハヤヒはナガスネを退けさっさとカムヤマト王の臣下に入るのです。そして物部として代々務めることになったのです。
このようにして物部氏および丹波海部氏にニギハヤヒの出自であるエフライム族の血が引き継がれました。エフライム族も元をたどればエジプト人との混血であり、日本へは「帰還した」というのが正しいのでしょう。

大和賀茂氏

ホアカリの左大臣フトタマの孫アメトミはカムヤマト王の即位式で星の臣として、八重垣剣を大物主クシマカタマに渡す役割を担います。第2代綏靖天皇の妃として娘が入内します。カムヤマト王が父ウガヤフキアワセズと母タマヨリを山城のほか大和にも祀るため、アメトミに任じて賀茂の社を宇陀榛原の鳥見山に造営しました。
フトタマの孫ということは、アメトミはナガスネヒコとは兄弟か従妹ということになります。異母兄弟ということもあり得ますがどうなのでしょう。あるいは同一人物なのかもしれません。祖神カンミムスビを辿れば出雲と関係が深いアメトミにカモの社を作らせたのは、アメトミにカモの働きを任じたということではないのでしょうか。

そのむかし、カモ船を発明したのはオキツヒコで、その子孫がホヲテミの妃トヨタマヒメであり、トヨタマヒメの弟タケヅミです。タケヅミは「賀茂社」の初めです。タケヅミの働きは妃の身辺警護でした。その娘はカンヤマト王を生んでいます。つまり賀茂族の祖神は海神なのです。
ではなぜ大物主系の事代主が鴨王と呼ばれたのかといえば、カモ船とは、小回りが利くことから軍船として使用された船です。御用船や商船を警護する働きがあります。カモ=軍備を整えた傭兵という広義のカモ族が形成されていったのではないでしょうか。
表の顔はアメトミとして鳥見山カモ社を拠点とし、裏の顔はナガスネヒコとして尾張より東の蝦夷の国へ潜入していたと考えると面白いですね。
しかし、それにしても出雲系鴨王=大和賀茂氏と海神系山城賀茂氏につながりは見えてきません。

事代主クシヒカタは鴨王と称されていました。
大物主の働きは日本を守る八重垣です。防衛軍であり、今でいう自衛隊ですから広義の「カモ族」ということになります。
大物主=八重垣=カモということで、大物主の代理を務めた事代主のことを、俗称として鴨王と呼ばれたのではないでしょうか。大物主の祭祀を継ぐのは大三輪となるので、事代主=鴨の系譜とは分かれるのです。ちなみに鴨王の子がハエ王と呼ばれる磯城家につながっています。

ナガスネヒコ=アメトミだとして、彼らの先祖にはカンミムスビがいて出雲族である可能性は高いです。出雲族のアメトミに海神系賀茂社を祀らせたということになります。これは、カモ族の統合を意味するのではないかと考えられます。ニギハヤヒ族と月神族の統合が起きましたが、カモ族についても統合・連合の流れをつくったのです。
大和賀茂氏の総本山である高鴨神社には出雲族であるアチスキタカヒコネが祀られています。橿原から見ると高鴨神社は南西方位にあります。鳥見山賀茂社の方角は東北ですから、鬼門守護の意味を込めたのでしょう。

ヤタガラスにつながる山城賀茂氏

ホツマツタヱによれば、カンミムスビの孫に金錬人アマメヒトツがおり、その曾孫がアタネでカンヤマト王に従属しました。カンヤマト王の即位式では月の臣として、鏡を鏡臣に就いたアメタネコに渡す役割をします。その後、後継者のいないままに亡くなったカモタケヅミの跡を継いで山城国造となったということです。つまり、海神系賀茂社に出雲系の血が入り、大和に分霊した鳥見山賀茂社を立てたアメトミと同じく出雲系に統合されました。

大三輪氏

カムヤマト王が勝利するや妃をめとらねばということで月読のウサツヒコが勧めたのは、ニギハヤヒのアスカ宮の大物主代理事代主であったツミハの娘でした。ツミハの妻が伊勢のサルタヒコに参った際にタタラ為して(神憑り?)できた娘タタライソスズヒメです。これを功にツミハは「えみす神」と讃えられ、その孫のクシネは縣主となり大三輪の斎主となりました。ツミハは八重事代主とも呼ばれます。一部不満分子がいたことが察せられますが、いち早く大王外戚の地位を得ます。

ちなみにサルタヒコとは今文明で初めて帝国主義をひろめたアッカド王国の初代王サルゴンが日本へ帰還した際の神名です。サルゴンの子孫による御祈祷を受けて得た出雲系の肝いり妻をカムヤマト王は得ています。そして第4代天皇までの内宮はすべて出雲出身の氏族(賀茂、磯城)から出ています。

磯城氏

カムヤマト王が熊野入りして後に味方となった磯城家の弟クロハヤが磯城縣主に封ぜられました。磯城がカムヤマト朝の土台となったところから重用されました。磯城家は2代目綏靖天皇から第7代孝霊天皇まで欠かさず妃を輩出し権勢をふるいますが、その力が大きくなりすぎたからか磯城の直系天皇となった孝元天皇のときに、排除される運命をたどります。

葛城氏

スサノオの系譜の中に葛城ヒトコトヌシがおり、その子孫がツルギネで、カムヤマト王に服属しました。もっとも古くからの葛城の守であり、カムヤマト王に葛城国造として封ぜられました。

春日氏

神武東征に登場する春日系の人物としてタケチノコリとアウエモロがいます。タケチノコリが層富(添)県主を務め、高市県主も務めたかもしれません。アマノコヤネはホアカリが斑鳩嶺に降り立った時の左の臣でした。祖神アマノコヤネの孫ウサマロは綏靖天皇の左の臣となり、その子孫にオオカシマがおり崇神・垂仁の大臣を務めています。その3世孫のオオバセは仲哀代に活躍し武内宿禰は叔父にあたります。オオカシマ4世孫アマヒサから中臣を名乗ります。

ウサマロの兄弟のアウエモロが春日縣主となり、3世孫のサタヒコまで務めた後、孝安天皇の時代に孝昭天皇の第一皇子アマタラシヒコクニが春日親君となった際に、十市県に国替えとなるまで歴代皇に娘を入内させています。

倭国大乱はなぜおきた?

カンヤマト王朝が誕生したあと、東アジアは小氷河期がやってきており民族移動がおきました。
北方の遊牧民である鮮卑の大人(たいじん)が檀石槐(だんせきかい)時代の178年に、鮮卑の人口が増えて農耕・牧畜・狩猟だけでは、食糧を十分に賄えず、烏侯秦水にまでやって来て川魚を獲って食料にしようとしました。しかし遊牧民には魚はまったく獲れず、漁労が得意な倭人が住む倭国(一説に江蘇省北部)を撃って烏侯秦水のほとりに千戸ばかり移住させ魚獲りに従事させ食料難を解決したということです。

一方、後漢末期の混乱の中で遼東太守を任ぜられた公孫氏が独立し、扶余と婚姻同盟を結んで南下しようとする鮮卑・高句麗などの脅威に対抗していました。
公孫度は169年以前から太守となり土地の名族から出自を軽んじられて百余家を滅ぼしたとあります。190年、彼はさらに高句麗や烏桓を討伐し、曹操に称賛されたといいます。公孫度のヒメミコは同盟のため扶余王仇台と婚姻関係を結んでいましたが、この仇台は、帯方郡の地で百済を興し東夷と呼ばれる大国になったとあります。

そして後漢書によれば、146年から189年の間、倭国王を争う倭国大乱があったという記述があります。卑弥呼という名の女王を立てることで乱は収まったということです。
この争いに、大陸の北方や朝鮮半島で起きていた抗争は無関係なのでしょうか。
そもそも鬼界カルデラ噴火以降、朝鮮半島全域にわたりに居住していたのは倭語を話す倭人だったとされます。紀元前1000年ごろから次第に韓人のテリトリーが増えていき、紀元直前に、高句麗、百済という国々が生まれるわけですが、九州に暮らす倭人国とは、朝鮮の国々と深い関係にあったのですから。

金官国建国の奥の意味

朝鮮半島の最南端に金官国(狗邪韓国)が生まれるのは、ちょうどそのようなゴタゴタの最中でありました。
金官国の初代首露王が誕生するのが162年頃のことになります。もともとは新羅に生まれた金氏の子孫であり、3代後に新羅王を継いだのは金氏から出た味鄒尼師今(みすうにしきん)でした。金官国としては2代目居登王ー3代目麻品王ー4代目居叱彌王と続きます。

首露王を辿れば、金閼智(きんあっち 65年頃~)ー金勢漢(きんせいかん)ー阿道王ー首露王となっています。
新羅王の金氏の祖でもある金閼智は、新羅の初代赫居世の宰相である倭人瓠公に見いだされた王子で、新羅4代目の倭人の王脱解尼師今(昔脱解)が育てました。この金閼智が欠史8代の一人である孝昭天皇であるという説があります。勢漢王が孝安天皇、阿道王が孝霊天皇で、金官国初代が孝元天皇というのです。
倭国大乱は146年~189年とされるので、日本で推定されている年代とは異なりますが、孝安天皇か孝霊天皇から孝元天皇のあたりにあったこととされます。

金官国が倭人の多く住む国でしたし、倭国大乱は九州の国々と金官国周辺で起きたことなのではないでしょうか。金官国を建設し日本府を置くときに多少のごたごたが起きたと思われます。倭国大乱はこんなふうに主に朝鮮半島で繰り広げられたか、もしくは、別の目的のためにフェイクな物語を紡がせたかということになりそうです。

環日本海勢力運営を担保する金庫を大陸沿岸に設ける計画

カンヤマト朝を主軸とした環日本海勢力を盛り上げるために必要であり、日本と朝鮮半島の国と協力関係などのためなのか「王族の移植」が欠史時代になされたといわれます。計画は第5代孝昭天皇だったとか。そして実行されたのが第8代孝元天皇の時代であり、皇子オシマコトが羅津の八幡天孫初代であると落合氏は書いています。羅津をウバイドが採掘し、スキタイが武器と傭兵業で蓄積した黄金の金庫とし管轄地とするための計画の中に、世の中を混乱させ目くらましをするべく倭国大乱が組み込まれていたのではないかと怪しみます。

第9代開花天皇の皇子ヒコイマスと、第10代崇神天皇は腹違いの兄弟となっていますが、崇神天皇は濊族の王子なのだとしています。誰なのかと言えば、新羅の王祇摩尼師今(ぎまにしきん)の王子(系図には存在しませんが)あたりだったのではないかと。この王は遊牧民の血を引いており、123年に倭国と講和したとあります。王子を日本に送り込み天皇に据えるというアイデアは、新羅に受け入れられたのでしょう。ミマキ(任那城)入り彦というイミナは日本府がおかれていた金官国の宮に入ったという意味なのです。交換条件として、羅津をテリトリーとする靺鞨との押し引きに関する協力体制を取り決めたのではないでしょうか。あくまで想像ですが。

崇神天皇の代に額に角の生えた人が、船に乗ってやってきたという伝承があります。その地を角鹿(つぬが、敦賀)と名付けたのです。その人の名は、意富加羅(おおから)国の王子で都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)といいました。伽耶は加羅とも呼ばれ、意富加羅=大伽耶=安羅(阿羅)であるのです。そして、この崇神天皇以前の時代に卑弥呼が立ち、倭国大乱は収まったということです。倭国大乱はひょっとすればこんな計画の中で仕掛けられたものなのかもしれませんが、卑弥呼なる存在が出たのは真実かもしれません。ちなみに安羅の王子が天皇に据えられたのですが、裏天皇はオシマコトからヒコイマスへと引き継がれたそうです。

ところで、倭国大乱の同時代から始まる集落で大量の虐殺後のような人骨が見つかっています。
鳥取県の青谷上寺地遺跡は、約2200年前から500年間使われたという集落遺跡ですが、400点をこえる鉄製品は、中国・朝鮮半島・北部九州の特徴を持ったものが見られるそうです。また古代中国の鏡やお金「貸泉(かせん)」も出土しています。これらの遺物から、日本海を舞台とした交易や、中国山脈をこえた交流などが行われていたことが推測できるといわれています。また、100点を超す人骨が発掘され、DNA鑑定も進められていますが、29種類もの遺伝的多様性が見られますが、32人中31人が渡来系民族だという結果だったそうです。日本全体では約30%が縄文人だとされるので、縄文人との混交があまり進んでいない状態だったということがわかります。さらに骨には槍で傷つけられた後など武器により亡くなった人のものが多く、しかも女性や子どものものもあるということで、何らかの侵略や虐殺が起きた可能性があるとされています。
何が起きたのでしょう。

カムヤマト大王の成立と欠史時代の倭国大乱

カムヤマト王が東征をはじめた時、協力した氏族や豪族がカンヤマト王朝を構成する主力チームとなっていきます。
初めから身近にいた日向族、鴨族、春日族、秦氏、和珥族、大伴氏、大物主ー事代主系などのほか、畿内で味方に付いた丹波海部氏、尾張氏、物部氏、山城賀茂氏、大和賀茂氏、大三輪氏、磯城氏、葛城氏など、多くの氏族がカムヤマト王を頂に集まりカムヤマト連合王国となったのでした。有力豪族たちはそれぞれ所領を与えられて国造や縣主として権力を行使したのです。まだまだ日本統一国家とは言えない支配地域でしたが、神武時代に9か所であったところから第15代応神天皇の時代までに100を超える国造が据えられ支配領域が広がっていきました。ただ、第10代崇神時代で21か所とそれほど増えておらず、第2代~第8代孝元天皇までにいたっては国造を一つも増やしていません。その時代、いかに国内より海外の政策に集中していたのかを表す数字かもしれませんね。

 

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