神の事

オリエントの国から扶余へのウガヤ王朝からカンヤマト王朝への道程


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紀元前5300年ごろ起きた鬼界カルデラの大噴火により、関東や北陸全域まで火山灰が10㎝以上降り積もり、九州南部では1m、四国、紀伊半島の多くの地域では30㎝のもの火山灰が降りました。その影響で600年~900年間は南九州に照葉樹が育たなかったといわれています。多くの人々は亡くなり、船を使って大陸に逃げ、東北や北海道へと移動したということです。
「日本に生まれていた神々の子孫はアララト山麓へ、崑崙山麓へと移動した、そして再び日本へと戻ってきた」という前提でここからのお話を進めます。日本や世界に残る古文書がそのヒントを与えています。

王族として日本へ最初に戻ってきたのは十種神宝を授かったホアカリでした。
ミタンニ王とエジプト王が共謀して、トゥシュラッタ王と娘のネフェルティティ、アクエンアテンらと東アジアへ向かいました。
トゥシュラッタ王は殷王朝に入り、アクエンアテン夫妻は十種神宝を承けた一つの天孫族でありエジプトファラオとして日本に来ました。
十種神宝を継いだ饒速日は大和の地に入ります。

その後、三種神器を継ぐカンヤマトイワレヒコが到着してカンヤマト王朝が始まります。

目次 Contents

建国の陰に金庫あり

トゥシュラッタ王らがいなくなり、ミタンニを任されたシャッティワザ王、最後の王シャットゥアラ2世へつなぎ、ミタンニの民とともにシロ・ヒッタイト時代を生き抜いて、王族はウラルトゥ王国を建てました。
ウラルトゥが倒れた後はリディア王国との同盟を頼りに、シルクロードを抑えていたメディア王国とリディアの同盟関係を活用しシルクロードを伝ってソグディアナへ行きました。
リディア王国はフリギア王国を併呑しており、金を生むウバイド人と関係の深い国です。フリギア(紀元前1180年ごろ)がヨーロッパにおける金庫の始まりではと考えられます。
カスピ海西岸から東側へやってきて金を採掘する金庫番ウバイド人はソグディアナであり中華では胡人と呼ばれるようになります。
その中華では周が建国されます。周の武王が殷を倒した背景には胡人と深い縁のある呂尚がいたことが大きいと伝わります。中華における金庫は紀元前1046年に始まるのです。
ウラルトゥ王族は胡人の案内の元、中華北方へと移動し、資金を得て扶余国を建てました。
扶余から高句麗や百済、また後に満州を統べる女真族へと分岐していきます。
ウラルトゥを祖地とし、アララト山、スバルトゥに起源のある貊族の大武神王が三種神器を継いだ天孫族であり、日本へ戻って王朝を建てた・・・

として、大和王朝がはじまる前後、日本の周辺状況はどうなっていたのでしょうか。

九州では数々の国があったことが遺跡や古文書などによりわかってきています。九州や丹後、丹波では近隣諸国との関係も自然と出てきます。
出雲には古い王朝があったと口伝に伝わります。また、弥生時代の遺跡が大規模な殺戮のあとを残しています。
九州よりも古い時代の集落遺跡が新潟や富山など越と呼ばれた地域にあり、また東北ではさらに古い時代の遺跡があります。
神武天皇が収まるまでにそこにいた大和の豪族たちもいます。
そうした人々とどのように関係していったのか。大和の豪族にとっては、神武軍はただの外寇にすぎない王であったでしょう。
すでに千年以上も前から十種神宝を受け継いでいる天孫族が大和にいるのに、それを服属させて王朝を建てられたわけを探っていきます。

日本で初めての抗争はなぜ起きたのか

縄文時代は1万5千年以上続き、争いのない豊かな社会だったという風に表現されることが多いです。裏を返せば弥生時代には争いが始まってしまっていたということになります。そのような歴史の中にも民族の移動が大きくかかわっています。

水耕稲作が九州へ入った紀元前10世紀ごろ

38000年前ごろ朝鮮から九州へ渡ってきた人々はハプログループD1a2系統を持っていた縄文人と呼ばれています。気候変動による寒冷化の影響もあり、朝鮮の北方から南下し、陸続きの日本へ渡ったか、船でたどり着いた人々です。シベリア方面からはハプログループC2遺伝子を持つマンモスハンターがやってきます。南からは海を渡りハプログループC1a系の海洋民がやってきます。港川人と呼ばれます。
日本に入ってきた彼らは部族ごとに小さな集落を作っていましたが、紀元前6000年ごろになると500軒をこえる集落や巨大なロングハウスや櫓を作ったりします。村は1000年も2000年もつづく民度を持ち、高度な文化をもって各地で暮らしていました。
しかし、7300年前の鬼界カルデラの大噴火で九州で築いていた文化はすべて火山灰の中に埋もれます。人々が九州で細々と暮らし始められたのは紀元前4000年頃からだといわれています。
中国の歴史書に残る日本の記述についてはせいぜい紀元前5世紀ごろからとなりますが、それ以前から縄文人が海洋民として暮らしていました。九州には巨石遺跡が多く残っており、鬼界カルデラ噴火のあと、紀元前4000年ごろのものとされるドルメンやメンヒル、環状列石が見つかっています。火山灰による荒地の中で、祭祀場を築き、阿蘇山に向かって火伏神事を行っていたのではないかという竹内説があります。巨石を扱える海洋民が去った後外国から戻ってきた元縄文人は、それらの巨石祭祀跡にペトログリフを刻んでいったのです。インダス文明の担い手であったドラヴィダ族などインドからの属、遠くフェニキア人やエブス人、ケルト人も訪れていたと竹内氏は語ります。
ソロモンとフェニキアの船の船長をしていたエブス人が豊日国の王となったという鹿島説もあります。豊日国を築いていたのは紀元前1300年ごろで、製鉄のコロニーだったとされています。この時代あたりから瀬戸内海海路が開かれ、交流をおこなっていたといいます。
そして紀元前1000年ごろに水耕稲作文化をもつ文明圏の民族が九州に上陸し、帰還していた縄文人と交流して農耕文化をはぐくみ、人口が増えて大きな集落を作るようになっていきました。
国ができる前の集落にもコメの貯蔵量で貧富の差が生まれて窃盗などの犯罪を犯したり、人口増加に従い集落ごとで開墾地を増やしていく際に、暮らしが忙しくなったり近隣の集落との小競り合いが生まれただろうことは想像できますが、もともとの民族が一つの集落で2000年も続く社会は「持続可能で平和な世」といえるでしょう。

ということで、第一抗争期に中国からの落人が入ってくるまでにも部分的に村を作りりつつ一定の文化を築いていたと想定しておくこととします。

紀元前5世紀ごろ入ってきた倭人グループの影響で九州の第一抗争期に

日本列島における本格的な集団間武力衝突は、考古学的に紀元前5世紀から4世紀に九州北部で始まったとされています。
中華大陸の中央部から呉や越(上海付近)へ出て海を渡り、遼東あたりから大陸に入って半島を南下するか、扶余、沃祖へと伝わり日本海を山陰地方へ入ったグループと、呉・越から直接百済や筑紫に入る倭人のハプログループはO1b2という系統になりそうです。縄文人がD系だとしたら、倭人はO系です。

大陸では周の権威が失墜し、戦国時代を迎えていたころのこと、日本の第一抗争期が起きています。
紀元前473年に呉の王夫差が、越王に攻められ自決したあと、その子である忌が九州菊池の地に上陸し球摩国をつくったとされています。
紀元前386年には、姜斉の康公が、昔に併合した陳の子孫で宰相であった田氏に簒奪され、孤島に幽閉されました。
紀元前376年には、晋の静公が城を出て庶民となって晋は滅亡しました。

戦国時代に滅びた国は他にも多くありましたが、生き延びて朝鮮半島や九州の西岸へと逃げてきた人々はかなりいたようです。
九州の第一抗争期は、中国大陸の戦乱から落ち延びてきたものたちが他者との戦いの思想を日本へ持ち込んだとされます。貧富の差があるならば奪ってしまえということで、渡来人ははじめは集落の用心棒のような働きを担ったのかもしれません。彼ら王族や武人グループは原住民と混交して土地に根付き次第に力を持ち、既存勢力に対抗し始めました。こうした渡来人はハプログループO1b系統に属する倭人です。大陸から輸入されたのは様々な技術だけでなく「戦いの思想」も持ち込まれました。対人用の武器となる石器などが生まれたのがこの第一期抗争とされます。
菜畑遺跡からは磨製石器が発見され、糸島市の新町遺跡からは、石鏃が刺さった骨や首級が発見されています。

外国の落人が入ってきた混乱の中で、いち早く国造りの機運を作った人々がいました。紀元前3~2世紀ごろになると、日本には多くの国が現れるのですが、そのような流れをあらかじめデザインして作った人々がいたはずです。なぜかといえば『魏志倭人伝』などに登場する倭人の国で、九州に存在するものの多くが、中華大陸から直接上陸したという紀元前5世紀頃の様子と違い、朝鮮の北方からやってきたとされる民族の国が多いからです。なぜ、九州北部地域までやってきて朝鮮北部にいた彼らは国を作らなければならなかったのでしょうか。

紀元前5世紀ごろの朝鮮半島ではまだ国というものが存在していませんでした。箕子朝鮮はあったとされるのですが中華や日本への影響力はそれほどなく、あまり情報がないのです。朝鮮半島の南側には辰という国があったともされますが、秦が中国統一を遂げた際の難民として秦人が流れて来て作った国との見方があり、そうすると年代的には紀元前200年ごろのお話になります。朝鮮半島の南側は日本とも縁が深いと思われますが、それでも歴史に残るほとんどは紀元後のことになります。例えば、新羅建国後の起源14年に倭人の船が100艘あまり新羅に侵入したということなどでてきます。紀元前2世紀ごろに起きた第二抗争期に九州では何が起きていたのでしょうか。

九州の第二抗争期 紀元前3~2世紀ごろ

第一抗争期の後沈静化し、九州北部で再び抗争が激化したのは紀元前3世紀末から前2世紀初めだということです。
九州には紀元後、伊都国、日向国、安羅国、末盧国、大隅国などが次第に成立していました。『契丹古伝』によれば安羅国の北には阿蘇山があり、もと卒本人(高句麗)の国であり、末盧国は挹婁人(外満州)、その南にある大隅国は南沃祖人の国ということです。倭人やインダス文明の担い手だったドラヴィダ族、高句麗の属奴、インドの属民などが入ってきて構成していたとしています。しかし国々のリーダーとなっている多くは朝鮮半島の北方にいる民族となっているのですが、なぜ、どのように入ってきたのでしょうか。

紀元前3世紀ごろ、朝鮮の北方地域で扶余という国が現れます。そのころは箕子朝鮮の時代であり、中国では戦国時代が秦の台頭により終焉を迎えつつありました。始皇帝の父を人質としていた国から救い出して秦の帝位に着け、その子供だとして始皇帝を作り上げたのは呂不韋の深謀遠慮と財力でした。しかし、呂不韋は失脚し紀元前235年には死んだことになっています。始皇帝が中華統一を成し遂げたのが紀元前221年。その秦の圧政から逃れて朝鮮にやってきた人々が辰に集まっています。そして徐福という人物が蓬莱山を目指して中華を出航した年が紀元前219年と210年とされます。徐福の来訪により争いが起きたことについては出雲口伝などに伝わっています。中華の統一国家は紀元前206年に倒されますが、中華の混乱に乗じてか燕の衛満が、箕子朝鮮を倒して衛氏朝鮮が誕生します。朝鮮においても政権がくるくる交代する混乱時代に先駆けて、いち早く来日した人々はある計画に従って目的をもって豊後地域に戻ってきました。古に豊国があったとされるところに定着し海部氏(あまべし)となっていきます。この海部氏は国東半島に移動し、さらには丹後、丹波へと移動して海部氏(あまし)に名を譲ったというのが落合説です。

中華の戦国時代に扶余人の集団、南沃祖人の集団、外満州の挹婁人の集団が一斉にそれぞれの船団で環日本海を九州北部へと移住し、国(村)を作ったのです。目的はその地域に「卒本扶余」の王国を建て、三種神器を日本に戻すことです。紀元前3世紀ごろの九州北部は、統一国家としての日本を作る要となる”皇”を迎えるための地ならしをしなければならなかったのです。

この300年計画を進めたのは、紀元前386年に幽閉されて死んだとされる姜斉の康公ではなかったのでしょうか。彼は死なずに遼東半島に渡り、まだ国を成さない貊族に建国を促しつつ、主に日本に誕生する王国の兵站金庫となるポータルを運営するため沃祖人や挹婁人の長老に合い纏めていったのではなかろうかと。姜斉の始祖である呂尚は、周王朝建国に際し武王を強力にサポートした人物です。古の賢帝の子孫を探し出して国に封じたり、功臣をよく取り立てました。おそらくは武王が中華の金庫を初めて封じた王だったと考えられます。それを画策したのは呂尚で彼が初代の金庫番だったのではないでしょうか。その呂尚の血を引く康公は、もう一つの計画を進めるための準備を始めたのです。環日本海を制することで、巨大な勢力となった中国大陸の国と均衡をとる政策を考えたと思います。
時が熟し、もともとは商人で巨富を築いた呂不韋は、失脚前に3000人もの食客をあつめて『呂氏春秋』を書かせ紀元前239年に完成したといいます。しかし集団を作ったことで反逆の嫌疑をかけられます。呂不韋は一族に伝えられている目的を達成するために日本へ行く計画を立て、徐福を長として船団を組ませたのです。人を集めたのも徐福につけて日本へ送り込むためです。出雲口伝では徐福は3度、名を変えてやってきているといいます。その中のどれかは呂不韋その人だったと考えます。呂不韋という実際に中国に統一国家を作った大物が日本へやってきたのです。その時辰国には秦人が大量に流れ込んで居住していました。紀元前14年に倭人の船が100艘あまり辰国に入ったということが伝えられています。計画は粛々と進められていたのです。

朝鮮北方にいた彼らは出身地の土地で国を作る以前から日本へ渡ってきており国を作りました。渡来してきた人々はそれぞれ国柄や言葉も習慣も違い、土着していた縄文人や倭人と統合していく段階で、小競り合いや行き違い、争いが起きたことは想像に難くありません。その大小の抗争の中から次第に国が現れて、『魏志倭人伝』に語られる頃には、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、奴国、伊都国、不彌国、投馬国、邪馬臺国の9か国のほか、女王の権威が及ぶ国として都支国、好古都国、彌奴国、伊弥国、巳百支国、斯馬国、烏奴国、支惟国、巴利国、クス国、耶馬国、鬼奴国、為吾国、鬼国、呼邑国、華奴国、蘇奴国、対蘇国、姐奴国、不呼国が挙げられています。それでも30の国に集約され、もともとは100余国もあったのだとか。第二期抗争は国が100→30になるための争いだったのです。

このようにして主にハプログループO1b2をもつ倭人として国づくりの知恵が蓄積されていきました。
やがて朝鮮半島の国造りが始まる流れになります。

朝鮮半島周辺の国造り

紀元前4世紀ごろから朝鮮半島にも国が現れ始めます。

殷人が建てた番朝鮮・馬韓

殷にはミタンニ王族の血が入っています。殷の最後の王紂王の叔父である箕子が建てた王朝を箕子朝鮮といいます。箕子朝鮮の嘉徳王は北扶余の解募漱に追い出され、当時より燕の侵攻に脅かされていた真韓(辰国)・番韓(馬韓)を救う名目で紀元前323年に番韓を併合し番朝鮮の王を名乗りました。番朝鮮の最後の王である哀王は燕人である衛満に王位を簒奪され、箕子朝鮮ー番朝鮮は紀元前194年滅亡します。哀王は数千人を率いて逃げ、馬韓を攻め落として馬韓の王となりました。馬韓は朱蒙の息子温祚王が百済を建てると、はじめは友好外交を行っていましたが紀元9年ごろに完全に滅ぼされてしまいました。

貊族が建てた国 東、北扶余・卒本扶余(高句麗)・百済

東扶余を建国したとされる解夫婁(へぷる)王は、子がなかったのですが、白馬の導きで金色の蛙を拾い育ててやがて人として美しく育ち王を継がせたといいます。
阿蘭弗(あらんぶる)という宰相の夢知らせで海辺の肥沃な土地に遷都しました。解夫婁の意味は「太陽・炎」を意味しており太陽の神であるとしています。ウラルトゥ王国の末裔です。金蛙王は、朱蒙(東明王)の父とされます。

解募漱(へもす)は扶余人ではなく松花江支流にいたダウ―ル族とされ、弓の名手であったということです。紀元前239年に兵を起こし箕子朝鮮の王を追い出したとされます。これが解夫婁のことであれば不自然さは多少解消します。解夫婁が去った後東扶余の地で紀元前59年に北扶余を建てるのが解募漱だとします。ところで、紀元前239年には秦の始皇帝の宰相であった呂不葦が書かせていた『呂氏春秋』が完成した年です。もしかして阿蘭弗=呂氏で金蛙が『呂氏春秋』(金を融通できる道)のことだったとしたら、ここでも呂不韋は扶余の国造りに貢献したことになります。
金蛙王の息子である朱蒙(東明王)は、北扶余を逃れて卒本扶余にやってくると、王に人となりを見て非凡の人であるとして二番目の娘を嫁がせ王位を継ぎ、紀元前37年に高句麗を建国します。

東明王の息子は三人いましたが、長兄が高句麗王を継ぐと、腹違いの二人の兄弟は南に向かい今のソウル付近に首都を置き紀元前18年に百済を建国します。
東北辺に接する靺鞨から初代で7回にわたる侵攻を受けたがいずれも撃退するという事績が残されていますが、金庫地として重要な役割を果たす靺鞨との接点が見えます。

秦はもとより扶余、高句麗、百済という国の建国のすべてに呂不韋が関わっているのかもしれません。さらに、呂不韋は「徐福」として日本へやってきている可能性もあります。目的は、中華と均衡を保てる統一国家を日本に建設するためです。

アケメネス朝ペルシャと濊族と新羅

斯蘆国(後の新羅)の建国は紀元前57年のこととされます。秦の時代から秦人が多く流れて来ていた土地で、始祖の赫居世居西干(かくきょせい きょせいかん)は、卵から出てきたという伝説以外の事績は述べられていません。重臣に瓠公(ここう)という倭人がおり、新羅建国時のキーマンとなっています。瓠公は、赫居世の跡を継ぐ南解次次雄(なんかい じじゆう)の宰相となる昔脱解(せきだっかい)に、居住地を譲り渡しています。昔脱解は倭の多婆那国で誕生し船で渡来した人物だということで、その賢者ぶりを聞きつけた南解が長女を彼に嫁がせたのでした。昔脱解は第4代脱解尼師今(だっかい にしきん)となり、9代目以降の王統を継ぐ流れになります。

脱解の時代の起源65年、あの瓠公が鶏のなく木に掛かっている箱を開けると容姿が優れた男の子が出てきたのを発見し、これを喜んだ脱解は男の子に金閼智(きん あっち)と名づけ育て太子につけました。けれど、王位は婆娑尼師今(ばさ にしきん)に譲りました。金閼智の7世孫の第13代味鄒尼師今(みすう にしきん)以降の王位を金氏が継承していくことになります。

新羅建国にかかわると同時に、脱解以降の系譜には倭人の血が色濃く流れているようです。脱解は丹後か丹波の海部族であったらしきことが読み取れます。つまり、宇佐の海部氏から名を継いで海部族となった系譜の人物だということです。

新羅建国以前、紀元前2世紀前後に秦人が多く流れ込んできていたとあります。それ以前は濊という人々が暮らしていました。濊といっても居住する場所や領土により呼ばれ方は異なるようですが、漢代には貊人と合体して濊貊と表現し北方の人々のような意味があったそうです。
言葉の分布を調べると、夏王朝時代の紀元前2000年頃の倭語族は日本列島にはおらず、朝鮮半島とその北方、つまり濊語族・扶余語族の居住地と、中華の燕の国があった地域に広がっています。朝鮮半島南部では伽耶語、耽羅語が倭語に分類されます。九州にオーストロタイ語族が見られます。殷王朝があった紀元前1000年ごろになって九州や瀬戸内地域と、朝鮮半島の最南端に倭語族が見られるようになるほか、依然として濊語族・扶余語族が朝鮮半島の北方地域で見られます。漢の時代紀元前後には『魏志倭人伝』で語られる地域と、任那、キシ朝鮮、濊貊の地域で倭語が話されています。言語からわかることは、新羅の人々はある時期まで倭語を話していた人々が居住していたということです。
濊族は倭人と近しい関係にあるということがわかります。紀元前2000年以前の古い時期、鬼界カルデラ大噴火によって朝鮮半島に避難した人々が次第に北へと居住地域を広げていった様が倭語の広がりから読み取れます。倭人と縄文人が居住しており、彼らは濊と呼ばれたのかもしれません。

そして、敦煌経由でバクトリアからやってきたペルシャ王族とお供のサカ族の人々が交わったのではと思われます。バクトリアという地域がペルシャ帝国に組み込まれたのはアケメネス朝時代にさかのぼります。キュロス2世によりペルシャの領土となったバクトリアにはサカ族がおり、サトラップ(総督府)が置かれ、キュロス2世の息子であるスメルディスが任務に就いていました。絶大な力を誇っていたキュロス2世が亡くなると、第一王子のカンビュセス2世がエジプト侵攻を進めます。その際にバクトリアのスメルディス王子は蜂起し、多くの国民の支援のもとに王位に就いてしまいます。しかし、家臣のダレイオスがスメルディスを滅ぼし王位を簒奪するのです。ダレイオスは長いその治世の中で、王の道などつくり交通網を整えるなどして国の繁栄に貢献しました。そして自身が大好きなスサに王宮を建築しています。

アケメネス朝ペルシャ王国ははじめ、エラム王国をつぶしてその首都であったアンシャン王を名乗っていました。当時大国であったメディア王国と婚姻同盟を結びながらもメディアを倒して取ってしまいます。そうしてエラム王国の古い首都スサの王を背景に持つアンシャン王は、ペルシャ王の血と、メディア王の血を受け継いだスパーハイブリッドキングとなり名実ともにその力を発揮します。キュロス王はバビロン捕囚を開放したことでユダ族からは「彼こそメシア」ともされるほど人気が高く、彼の国を倒したアレクサンドロス大王も尊敬するほどでした。その血を継いだ第2王子がスメルディスなのでした。彼はダレイオスに命を狙われますが、サカ族に守られながら東に逃れ敦煌から北京方面へと進み遼東の北、鞍山(あんしゃん)に紀元前520年ごろ落ち着いたのかもしれません。時は春秋時代のことです。遼東半島は箕子朝鮮のテリトリーでした。スサの王族と供のサカ族の一団はアンシャンを拠点として濊族と呼ばれ、東北方面にテリトリーを拡大しつつ、朝鮮半島の南にも海を渡って行動範囲を広げていきました。
その後箕子朝鮮が紀元前195年に倒れ、衛氏朝鮮も倒れるころ、中華大陸からの難民により朝鮮半島の東岸に押し込まれていきました。濊とは「水が深く広い」様を表す言葉ですから海に面する土地に住む人々という印象だったのでしょう。
そんな時に現在のプサンの北辺の村長が、馬のいななきで卵を見つけ、出てきた子を新羅の王にしたのが新羅建国のお話です。馬は遊牧民のイメージがあります。卵とは遊牧民が守り運んできた王族の子であるという比喩表現です。新羅の初代王は濊の王族であり、古くはスサの王、アンシャン王、ペルシャ王、メディア王家の血を引く子孫なのです。

日本の統一王朝誕生までの経緯

「無事に日本に戻さなければならないのはYap遺伝子と三種神器」
そのような目的をもって、呂不韋を中心に紀元前200年前後の歴史が紡がれてきました。それぐらいの意識がなければ、D遺伝子をこんなに色濃く日本に残すことはできなかっただろうと考えられるからです。偶然や奇跡では片づけられない、人々の働きがあったに違いないと考えます。

YAP遺伝子も三種神器も理念としては同じことを示します。それはシンプルに「ト」のヲシテとホツマツタヱに言われる概念です。「オレかオレ以外か」ではなくて、「オレとオレ以外と」というあり方です。その概念がとても大切なのであり、日本にもう一度戻す必要があるものでした。

三種神器を受け継いだのは誰か

三種神器は、アマテルカミの時代に成立し、オシホミミへ、ニニギへと引き継がれた神器です。
これを引き継いだ王が皇なのです。天孫族は鬼界カルデラ噴火のあと、三種神器を左右に持たせて八州巡りを行います。
その舞台が、メソポタミアのラガッシュの地でした。ニニギ族はそのあと、三人の息子のうちホヲテミに三種神器を渡します。
次のホヲテミの世では、ウル第三王朝を開きました。
次なるはウガヤフキアエズの世となり、ウガリットからミタンニへ、ミタンニからシロ・ヒッタイト時代を経てウラルトゥへ、扶余へと継いでいきました。
ウガヤフキアエズの世ではとても厳しい戦況などを経験しつつなんとか持ちこたえたという感じがします。Y遺伝子を持つ一団となって移動し、別れ、合流しつつなんとか続いてきたのでしょう。

その後、扶余から朱蒙(東明王)が出ます。
彼から神器が伝わったのは卒本扶余の系譜です。瑠璃明王が継ぎ、大武神王が引き継ぎます。
大武神王は41歳ぐらいで亡くなったとされます。しかし彼は生きており高句麗の三種神器を第4代閔中王に譲り、新羅の宰相昔脱解の案内により日本の三種神器をもって扶余を出発します。紀元44年のことです。

タケヒトが”東征”した流れ

卒本扶余が国となる前は有力な”那(奴)”集団すなわち桓奴部、絶奴部、消奴部、灌奴部、桂婁部と言う五族の連合集団として高句麗あるいは貊(日本ではこま)と呼ばれていました。
遼東半島やその東北方位にある地域は、衛氏により簒奪されたあと紀元前108年ごろ漢の支配下となり漢四郡の楽浪郡、玄兎郡を置かれ県境に城を築き漢により治められました。しかし漢は日本海へ出る交通路と主要地点を抑えるにとどまっていました。高句麗集団としては要所で抵抗をつづけたようです。そのうち漢四郡の運営に行き詰まったのか、紀元前82年に遠方の群を廃止し再編成され紀元前75年に高句麗県を遷都し、玄兎郡の支配領域は次第に縮小し、高句麗は力を盛り返しはじめました。そんな中で紀元前37年に独立し高句麗を建国します。
東明王が開いた高句麗という国は、濊族が始めにいたアンシャンのすぐ東に建国されます。
2代目のときさらに東に遷都しています。瑠璃王から大武神王にかけて高句麗は、黄海と日本海に出る要所を抑えつつどんどん国土を拡大していましたが、楽浪郡に関しては奪われて大武神王は消えます。

紀元前57年に建国した新羅には、もともと渡ってきていた濊族と秦から逃れてきた秦人が暮らしていたところへ、14年には倭人の船が100艘侵入したり、36年に漢が楽浪郡に侵攻し楽浪民5千人が新羅へ逃げてきたりと、多くの民族がそれぞれの村を作りつつ争ったり混交しながら暮らしていたと思われます。紀元44年頃の新羅王は3代国王儒理尼師今(じゅり にしきん)で、側近に次期国王となる倭人の昔脱解がいました。丹波出身の海部族の人物とみられます。昔脱解の道案内により、新羅の国を安全にプサンの港まで移動できたのです。

プサンから海部カモ族の船で、宇佐の海部族の国へと到着します。タケヒトは宇佐で歓待を受け、隊を整えて瀬戸内海を東へと進み、一度は河内から畿内侵入を試みます。しかしその道は阻まれたので、紀伊半島を廻り熊野から上陸します。ヤタガラスの導きや、ウマシマチの投降などがあり、最強の敵ナガスネヒコを退けてタケヒトは王朝を築くことができました。

卒本扶余から始まる神武東征ストーリー

私はこれまでにずいぶんと沢山の神社を参拝してきました。1500社以上参拝する中で、神武天皇が祀られている橿原神宮に参拝したとき「これは神社なのかな」と、ちょっと違和感を覚えました。なんといえばいいのか、異国感が漂うなと。

「鬼界カルデラ噴火の後、神々の子孫はアララト山や崑崙山やメソポタミアに移動した」
「神武天皇の先祖は扶余王で、ウラルトゥ王で、ミタンニ王でアララト山にも近いスバルを祖地とする」
「神武東征の起点は卒本扶余だった」

このような歴史を神々の子孫がたどり戻ってきたのだとすれば、橿原神宮が「異国感」をまとうのは当然です。神寂びた古社は縄文の雰囲気が残っていてまるで違いますから。
こういう「縄文」は日本人の遺伝子にも色濃く残っているようです。D系の遺伝子は大陸で淘汰されつくす前に日本へと戻ってきた・・・のかもしれません。

さて、神武東征でカムヤマト王朝が日本に誕生してから、欠史8代の時代があり、魏志倭人伝や後漢書東夷伝に言われる「倭国大乱」時代がきます。
「倭国」に何が起きていたのでしょうか。

参考記事
天孫族はどのような経路でいつ日本へ帰還したか
黄金の国フリギアからハプルブルグ家へ、エジプトから天孫へ移る”ガイアの意志”
ヒッタイト王国がローマ帝国に化ける トロイヤ戦争 海の民
鉄と金と馬をもたらしたスキタイサカ族 月氏 匈奴
海のスキタイ島ケルト人、フェニキア人、エブス人ら文明を運ぶ海洋民族
エジプト18王朝アクエンアテン王と天孫ホアカリ

 

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