神の事

神武天皇、崇神天皇、応神天皇を奉迎した遺伝子「D」「C」の意図


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卒本扶余からカンヤマト王が畿内に入り初代神武天皇となり、濊族の血を引く新羅王子であり阿羅に入ったミマキイリヒコ(任那城入彦)が10代崇神天皇となるーーー
その物語を前提として、後の豪族たちが担った働きとか、ひいては今生きる日本人につながる動きとリンクさせたいと思います。

目次 Contents

初代神武天皇時代

カンヤマト朝初代の直前の時代に、新羅で丹波国出身の昔脱解(せきだっかい)が宰相として取り入れられています。昔脱解はもともとはホアカリを祖とする海人族でありましたが、ニギハヤヒを祖とする丹波海部族に吸収され、密命により新羅へ渡って皇の日本帰還のための潜入工作を謀っていたのでした。その功あり日向で育ったカンヤマト王が東征し、大和にいた別系統の皇族ニギハヤヒーウマシマチに国を譲られてカンヤマト王朝が始まりました。

2代目綏靖天皇の母となるのはタタライソスズヒメです。
タタライソスズヒメの父は事代主のツミハです。タタラは、伊勢のサルタヒコがたたらなして生まれたことが由来となっており、イソスズとは五十鈴であり日本語50音を表すともいわれます。ほかにサルタヒコの出身地であるシュメールの神エンリルを表す数字という説もあります。「たたらなす」とは通常、製鉄の段階で使われる言葉ですが、この場合は「ご神事による神懸りにより高純度の精神が入った」というような意味になります。父ツミハは大物主の代理を務める事代主であり、もともと大和のアスカ宮ホアカリの右の臣を務めていた大物主クシヒコの孫で大三輪氏の祖となる人物です。母も大物主の子孫です。大物主の出自はシュメールの地域にあるようだと理解できます。
タタライソスズヒメを推挙したのは宇佐国造となったウサツヒコなのですが、当時の婚姻は太占(ふとまに)によるところが大きいわけで、ウサツヒコは後の陰陽師のような働きも持っていたことがわかります。このような働きは山岳系月神族の大きな特徴です。ウサツヒコは月神族であり、海人族でもあったのです。ウサツヒコの娘がアマノコヤネの孫アメタネコと結婚し、その子ウサマロは鏡臣(左の臣)になります。ホアカリの大臣のときからのつながりが色濃く残っています。

出雲口伝によれば、事代主は出雲王族になります。この子孫が大和で大和賀茂氏、鴨王になっていきます。ホアカリが天下った地域から京都へ抜ける途中に出雲大神宮がありますが、ここが大物主となる前のクシヒコの根拠地だと考えられます。クシヒコはホアカリの遷宮にアマノコヤネと共に反対し二人ともホアカリの大臣を辞していますが、二人の子孫は大和賀茂氏や春日氏として大和の地で営々と地盤を固めていたのでした。

カンヤマト王はホアカリの系譜にあり神武軍に貢献したカゴヤマ(タカクラシタ)を、すべおしかという職務に任じ外つ国より、筑紫32国、山陰、越後、24国を調査し情報を集め、不満分子が見つかれば平定するという役割を与えました。タカクラシタは最終的に新潟へ治まり羅津への日本海航路を開発する一方で、子孫は尾張という東国との境界線を護持したのです。タカクラシタの子孫が中央での役職を得るのは孝昭天皇の時代まで待たなければなりません。

一方のエジプトにルーツを持つエフライム族ニギハヤヒの系譜は物部氏の祭祀を代々担当しつつ、子のウマシマチは中央政界で早々に申食国政大夫という地位を確立しています。この役職は食国臣(けくにおみ)といって右大臣と左大臣の働きを併せ持つ強大な権力となり、9代開花天皇の時代までウマシマチの子孫が独占します。これを見ると、ニギハヤヒーウマシマチはカンヤマトに王朝を譲ったように見えて「共同統治」のような構造になっていることがわかります。まさにアクエンアテンとスメンクカーラーの関係を映したかのように。

内宮:タタライソスズヒメ(事代主娘)
大典侍:アヒラツヒメ(日向族娘)

第2代綏靖天皇時代

綏靖天皇の内宮イスズヨリヒメの父も事代主となっています。イスズヨリヒメから第3代安寧天皇(シキツヒコタマテミノミコ)が誕生しています。出雲の女系の血が重要だったという説もあります。ちなみにホツマツタヱでは「ミスズヨリヒメ」となっており父母は不明です。
この時代に大物主の祭祀を継いでいたクシミカタマの子で鴨王と呼ばれるアタツクシネに大三輪姓を与えています。大物主とは八重垣、つまり国防を担うもののことです。

一方ケクニオミ(食国臣)が次世代から設けられますが、綏靖天皇の申食国政大夫(食国臣+斎主か?)としてウマシマチが就いていたとあります。ウマシマチは「代々物部継げ」とカンヤマト王に任命されたのですが、物部とは兵隊・武器をつかさどる働きのようですが、大物主との違いはどこにあるのかよくわからないところがあります。けれども、後の働きから何を期待されたのかが見えてきます。

ウマシマチの子で近江の豪族の娘を妻に迎えたヒコユキ(彦湯支命)が足尼(すくね)となり、次に申食国政大夫となりました。18代反正天皇が皇太子の時代に湯沐邑(ゆのむら)という制度が初めて現れますが、その原型の部署に就いたのがヒコユキではなかったのでしょうか。食国臣はヒコユキの系譜が代々継いでいきます。湯沐邑とは中華では周の時代に現れます。皇太子や皇后の収入源となる金の保管地だそうで、土地を掘削すると温泉が出たのでそのような名でカムフラージュしているのかもしれません。特定の皇族の保養地として活用していたようです。後の大宝律令には全国2000か所御名入部(湯沐)を設置されたそうです。”湯”の開発のためには全国津々浦々まで旅をし発掘しなければなりません。そうしたことを担う部署がヒコユキの系譜です。そして食国臣となったオオヤクチから物部氏へとつながっていきます。

カンヤマト王が日本列島にやってくる以前から、新羅にて工作を行っていたのは丹波海部族でしたが、それを配下に動していたのがエジプト出身のエフライムであるニギハヤヒ族だったのです。日本国内での砂金採取に本格的に取り組むと同時に、この時代はすでに確立していたであろう若狭や越後、佐渡と新羅の航路から、大陸で天然の安全な港を開発するために動き始めたのが丹波海部族の頭であったことが、カンヤマト王朝でニギハヤヒの子孫が食国臣を独占する理由です。新羅潜入を計画したのは200年前ごろに日本へやってきた徐福に化けた呂不韋でしょう。「死して兵を動かす」呂氏、つまりウバイドの民です。おそらくカンヤマト朝が始まるのと前後してせっせと天然の良港羅津の発見・開拓を行っていたのではないでしょうか。そのような働きを担う物部とは、世界情勢に通じ、黄金に通じ、「すでに罷るも蘇る」十種神宝を握る特殊な氏族です。

内宮:ミスズヨリヒメ(事代主娘)磯城クロハヤの家で安寧天皇を生みシキのイミナがつくところから、磯城家の娘なのでは?
大典侍:カワマタヒメ(磯城県 クロハヤ娘)
典侍:アダオリヒメ(高市県 鴨王アタツクシネ娘)
典侍:イトオリヒメ(春日県 アウエモロ娘)第一皇子イキシを生む
内后:カツラヒメ(葛城県 ツルギネ娘)出雲系で、葛城一事主命を祖とする葛城の家が大和で最も古参かもしれない。
下后:カツラヨリヒメ(葛城県 ツルギネ娘)
下后:キサヒメ(忌部アメトミ娘)アメトミの祖父はフトタマという。つまり、ナガスネヒコとは兄弟か従妹かそれとも同一人物か。この辺りも隠されている。

第3代安寧天皇時代

安寧天皇はシキツヒコタマテミノミコといって、磯城クロハヤの館で誕生したとあります。磯城家は神武東征の際に弟が神武軍に就いたことで、権勢を振るうようになりますが、出雲の伝承では鴨王の子だとされています。イスズヨリヒメの本名はミスズヨリヒメで磯城の娘だったとすれば腑に落ちます。事代主の娘ではなく孫娘ということになります。ホツマツタヱには「ミスズヨリヒメ」となっており内容に食い違いが見られますが、そこには「鴨王と磯城家を切り離したい意図」が隠されているようにも見えます。
クロハヤは娘のカワマタヒメをタマテに嫁がせています。出雲伝承ではこのタマテが磯城の当主であったとしているのは、出雲系図の権威付けなのかもしれません。タマテが磯城家の婿であったことは確かなようです。
大三輪姓を賜った鴨王アタツクシネは綏靖天皇の右の臣で事代主の子孫です。そのクシネと「ミスズヨリヒメ」は兄弟だったのかもしれません。
この時、大三輪から磯城家へ権力が移動したらしきことが伺えます。外戚権力の簒奪であったのか、何か表ざたにしたくない不都合がことが起きたのでしょうか。

この時代にケクニオミ(食国臣)が設定されています。これは「鏡の臣(左臣)」と「剣の臣(右臣)」の職掌を合せた強大な権限を持つ官職で、アマテルの時代に確立した三権で成立するの政の原則は失われました。安寧天皇の頃からは鏡の臣、剣の臣は完全に形骸化し、ケクニ臣一人が国政を掌握したという流れです。綏靖天皇時代ウマシマチがこれを担ったといいます。またこの時代にイワイヌシ(斎主)が儲けられています。天皇の代理として祝を行うものでしょうか。
春日の娘が生んだ第一皇子トコネツヒコの名を裏に刻んだ「倭奴国王金印」が志賀島で発見されています。倭奴国とは九州に存在した国とされています。この時代はまだカムヤマト朝が認定する国造や縣主を置く国は9個ぐらいのものです。倭奴国の王は、カンヤマト朝の分国として魏や新羅などとの外交を担っていた可能性があります。カムヤマト王朝の国際化が次第に始まった時代と言えます。同時に、北方の騎馬遊牧民が南下する脅威を肌で感じたのかもしれません。トコネツヒコは黎明を拓く存在なのではないかと思えます。

内宮:ヌナソヒメ(高市県 鴨王アタツクシネ娘)磯城と鴨王(ともに出雲系)を祖父に持つい徳天皇を生む 
典侍:カハツヒメ(磯城県 ハエ娘)
大典侍:イトヰヒメ(春日県 オホマ娘)第一皇子トコネツヒコを生む。倭奴国の王か?

食国臣:イイカツ/内宮ヌナソヒメの兄、イヅモシコ/ウマシマチの孫
斎主:オオネ/ウマシマチの孫

第4代い徳天皇時代

春日縣主アウエモロの娘ヌナタケヒメを母とし、大三輪氏アタツクシネを父として徳天皇が誕生します。トコネツヒコは外国との交易及び防衛や危機管理に関してい徳天皇の政策に少なからず影響を与えているはずです。皇子の中から羅津体制を整え、黄金支配につなげる血をもった人材が必要です。綏靖天皇第一皇子であり春日の血を継ぐイキシの娘アメトヨツヒメとの間に第5代孝昭天皇を生みます。ここから見えるのは、イキシの存在感です。同じ春日の血を引くトコネツヒコを介して外交に当たらせています。カムヤマト朝が朝鮮半島に飛び地を作るための下ごしらえの時期でした。魏との関係と連絡を緊密にしておくことで、新羅などの国への過干渉などを抑える必要があったのです。

内宮:アメトヨツヒメ(綏靖天皇の孫 イキシ娘)孝昭天皇を生む。
典侍:イズミヒメ(磯城県 イデ娘)
勾当:イイヒメ(春日県 フトマワカ娘) 

食国政申大夫:イヅモシコ/ウマシマチ孫

第5代孝昭天皇時代

イミナはみまつひこかえしねのみこと。
この時代に新羅の宰相で倭人の瓠公(ここう)に見いだされた金閼智(きんあっち)はおそらくはカムヤマト朝の皇子で、同じく倭人で新羅王となった昔脱解(せきだっかい)に育てられ、金閼智の系譜から後に金官国(任那)の王が誕生します。
時の食国臣にオキツヨソが就任しており、内宮はその妹です。カゴヤマの孫と葛城の姫との間の兄弟で葛城彦という名も持つオキツヨソは葛城県で育ったことが伺えます。
この時代、二人の食国臣がいたことになり異例のことです。ウマシマチの系譜が続いていた食国臣ですが、新羅の飛び地(金閼智)の方も我が国の王として食国臣を任せられたのが「沖津」と名づくオキツヨソなのかもしれません。考えてみれば最初期に紀国造を担ったのはオキツヨソの祖父のタカラクラシタであり、その後タカクラシタは金や翡翠を産する弥彦へいき蝦夷の国との境目の守護を担いつつ、大陸へ渡る日本海航路を確保していたでしょう。整いつつあった羅津の港ととの直行便を出すことができる海路を持ったタカクラシタ族で葛城の娘を母に持つオキツヨソが台頭したのは当然かもしれません。朝鮮半島に日本府を置くことを目標にして動き始めていたこのころ、新羅に送り込まれた皇子金閼智に付けられたのがオキツヨソで、その妹が妃となったのです。
ニギハヤヒ族はここから”孝昭天皇”の食国臣を任され、タカクラシタ族は金閼智(きんあっち)の食国臣を担ったのです。皇の影武者が新羅か日本にいたのです。

内宮:ヨソタリヒメ(香語山孫 アメオシオ娘)アマタラシヒコクニを生む。孝安天皇を生む。
典侍:ヌナギヒメ(磯城県 ワカハエ娘)
長橋:オオイヒメ(春日県 サタヒコ娘)

食国臣:イズシココロ/ウマシマチ孫、オキツヨソ/内宮ヨソタリヒメの兄、タカクラシタ(香語山命)の曾孫、母は葛城県主ツルギネの娘カナラチヒメ

第6代孝安天皇時代

孝安天皇の兄弟のアマタラシヒコクニ(春日親君)の娘オシヒメを内宮とします。アマタラシヒコクニが春日県主となり磯城、春日、十市県あたりの勢力地図に変化が起きました。春日縣主はアマタラシヒコクニからチチハヤへ移り孝霊天皇に娘を嫁がせます。次にヒコウバツへ引き継がれ、開化天皇に娘を嫁がせます。
春日族の権勢が強くなっていきます。この時代の食国臣は記述がないのですが、宿禰に就いた二人がウマシマチの子孫としながらも素性がよくわかりません。何かゴタゴタでも起きたのでしょうか。先代の食国臣のオキツヨソは一代のみであとは世襲されていないようです。「孝」と名つく天皇、孝昭ー孝安ー孝霊ー孝元時代は新羅王族として身(もしくは影武者)を置いた時代だと考えると、およそ75年間ぐらいですから、オキツヨソを継ぐ人物がいたはずですが、伝わっていません。

内宮:オシヒメ(アマタラシヒコクニの娘)孝霊天皇を生む
大典侍:ナガヒメ(磯城県 ナガハエの娘)
勾当:イサカヒメ(十市県 イサカヒコの娘)

宿禰:ムツミ、ミツミ/ウマシマチの子孫(ともに系図には名がない)

第7代孝霊天皇時代

ウマシマチの曾孫二人を宿禰に任命しています。
ホツマツタヱでは、孝霊天皇はニギハヤヒの兄弟タケヒテルの子孫タケトメを臣としたとあります。タケトメという人物はつまり、ニギハヤヒ族に生まれたのですがオキツヨソの甥にあたるタケツツクサの養子としてタケトメを迎えさせました。系統が途切れそうになったので継いだということですが、タケトメによりニギハヤヒの一族にタカクラシタの一族の血は入れ替わり、タケトメの子のタケタセの子孫は海部氏となり、タケダオリの子孫が尾張氏となっていきます。これは氏族の併呑なのかもしれません。前天皇の時代に食国臣がはっきり記載されていないのは、「系図を継ぎ木しなければならない事件」が起きた可能性を感じさせます。

西国が騒がしくなったので、播磨・出雲に忌部臣とモモソヒメの弟イサセリヒコを送り、ハエヒメの子ワカタケヒコ兄弟を吉備上下に送り、ハエヒメの真ん中の子ヒコサシマを越国に送り治めさせたとあります。倭国大乱による騒ぎの影響でしょうか。大乱は卑弥呼を女王に据えることで収まったということです。モモソヒメが卑弥呼ではないかという説もあります。弟イサセリヒコとともに出雲に入り、斎主となって立ったのがモモソヒメで、大乱が収まったとすればそれは卑弥呼なのかもしれません。
鳥取県の青谷上寺地遺跡で見つかった100人ほどの人骨は、「西国の騒ぎ」の結果だったのでしょうか。そして次の孝元天皇時代に金官国(金官伽耶)が生まれます。

カムヤマト王の時代からすでに新羅に潜入していた丹波海部族の昔脱解は宰相まで上り詰める。昔脱解は倭人の船100隻を招き入れ、抵抗した現地の人々と争いになった。追い出されたり逃げ出した人々が九州や山陰地方へ入った。さらに日本から送った皇子を新羅王族”金氏”として育て上げ、その子孫は新羅の王となり、一部は金官国を建てる。それに抵抗する新羅人と倭人の戦いが激化し、船で鳥取地方にたどり着いた人々がいた。そこへ孝霊天皇の軍がやってきて侵略者から国土を守った。金官国成立を成し遂げた昔脱解の働きは高く評価され、丹波海部族を配下に置くウマシマチの一族は重用され長く食国臣を務め、一方で物部としても活躍したーーー

またこの時代、孝霊天皇の御代に富士の神官に口伝で伝わっていた富士王朝伝承が富士文献として徐福によりまとめられたという話が伝わっています。孝霊天皇の時代は何かと情報がわさわさしています。夜明け前の一番鶏の鳴き声のごとく。

内宮:ホソヒメ(磯城県 オオメ娘)孝元天皇を生む
典侍:ヤマカヒメ(春日県 チチハヤ娘)
勾当:マシタヒメ(十市県 マソヲ娘)
内侍:ヤマトクニカヒメ(大和国造娘)ヤマトモモソヒメ、ヤマトイサセリヒコ、ヤマトワカヤヒメを生む
内侍:ハエヒメ(大和国造娘)兄ワカタケヒコ、ヒコサシマ、弟ワカタケヒコを生む

宿禰:オオヤクチ、オオミナクチ/ウマシマチの曾孫

第8代孝元天皇時代

この時代に首露王がクジの岳に降臨し、朝鮮半島の最南端に金官国が誕生します。妃はアユダ国の王女となっています。時を同じくして、孝元天皇の子でありウマシマチの子孫にあたる皇族のオシマコトが、羅津の初代八幡殿として治まったとする落合説があります。羅津という場所はウバイドが採集すると同時に、スキタイとなったウバイドが傭兵収益として得た黄金が集められた極東の地とされます。羅津の黄金を北方から南下する騎馬遊牧民から守る縄文海人族らが八つの旗を掲げた騎馬隊グループに分かれて守りを固めていたそうです。それを八幡(やはた)といい、全体を束ねる羅津の初代八幡守が孝元天皇の第四皇子オシマコトだということです。

オシマコトは葛城縣主の娘との間にウマシウチをもうけ、武内宿禰を出しています。

内宮:ウツシコメ(宿禰オオヤクチ娘 ウマシマチ玄孫)開化天皇、オオヒコ、トト姫を生む
内后:イカシコメ(宿禰オオヤクチの孫娘 ウマシマチ子孫)オシマコトを生む
内后:ハニヤスヒメ(河内国造 アオカキカケの娘)ハニヤスを生む

食国臣:ウツシコヲ/内宮の兄弟、ウマシマチの玄孫

第9代開化天皇時代

開化天皇の子とされる崇神天皇は、濊族の王子であると落合氏は言います。八幡殿オシマコトが濊族の姫をめとり、羅津で生まれた八幡皇子を「崇神天皇」としてすり替える計画があったとしてもおかしくはありません。八幡初代オシマコトの下で育てられた崇神天皇は、開化天皇が治める金官国の王子として育ち、イカシコメの生んだミマツヒメを内宮とします。ここで崇神は開化天皇とイカシコメの義理の息子となります。オシマコトの子でありY遺伝子は失われていません。この天皇の”差し替え”は崇神天皇時代に日本へ渡ってきたツヌガアラシトを阿羅の王に据えるというお話となって残っています。

なぜ八幡殿皇子で濊族の血を引くミマキイリヒコを日本の天皇として迎えているかと言えば、迫りくる騎馬遊牧民に対抗するため、騎馬の皇子を日本列島に建てたのだというのが落合説です。

八幡殿が整うまでの黎明期からの流れと天皇を整理すると次のようになります。
八幡黎明期初代 神武天皇第一皇子 カンヤイミミ(2代綏靖時代)子孫は多氏(意富)として代々湯沐令を担ったとか。 
八幡黎明期2代 綏靖天皇第一皇子 イキシ(3代安寧時代)トコネツヒコと同一ともされる。初代トコネツヒコか?
八幡黎明期3代 安寧天皇第一皇子 トコネツヒコ2世(4代い徳、5代孝昭時代)筑紫の倭奴国王として対外政策に関与し新羅に倭人王族を潜入させる。羅津航路確立?
八幡黎明期4代 孝昭天皇第一皇子 アマタラシヒコクニ(6代孝安、7代孝霊時代)16以上の臣氏族の祖とされている。婚姻同盟でカンヤマト王朝の地盤を固めた?
八幡黎明期5代 孝霊天皇第一皇子 ヤマトイサセリヒコ(8代孝元時代)倭国大乱時代(146-189)にモモソヒメと共に出雲入り。同時多発的に金官国と羅津開闢か。
八幡初代 孝元天皇第四皇子 オシマコト(9代開化時代)第一皇子はオオヒコ(越のオシ)推定150-175 八幡御子ウマシウチはアシカビハラに9年住む。

ここまで念入りに準備していた崇神天皇はハツクニシラススメラミコトともいわれます。この名は日本書紀によるもので、初代神武天皇と同じ呼ばれ方をします。
神武天皇は日本列島に統一国家を立てた初めての王という意味になります。アララト山を根拠地に持つ狛族の王で海人族の母を持ちます。5000年以上にわたる長い世界放浪の末に日本へ帰還して鬼界カルデラ大噴火の後はじめて豪族の連合国日本に立った王であり「ハツクニシラス」といったのです。

ならば、崇神天皇が神武天皇と同じ名を持つ意味は何でしょう。
崇神天皇はエラム王国を根拠地としています。エラム王国はペルシャに吸収され、やがてマケドニアの領地となっていく間にエラムのスサやアンシャンを根拠地とする王族が朝鮮半島北辺に居住し濊族の王に収まったのです。スサの王が日本で皇となったので「ハツクニシラス」といった、と考えるとなるほどという感じはします。神武天皇は天孫族の末裔なのであり、崇神天皇はスサノオの末裔であるということです。
ならば、ツクヨミはどうした?

内宮:イカシコメ(宿禰オオヤクチの孫娘 ウマシマチ子孫)崇神天皇、ミマツヒメを生む
?:タケノヒメ(丹波県 ユギリ 道主の娘??)
典侍:オケツヒメ(ウバツヒメ)(春日県 オケツ(ウバツ)の娘)ヒコイマスを生む
内侍:タカヒメ(葛城県 タルミ娘)

カル大臣(食国臣):ヘソキネ/ウマシマチの玄孫
斎主:ウツシコヲ/ウマシマチの玄孫

第10代崇神天皇時代

崇神天皇の時代にツヌガアラシトをして任那(阿羅を含む)を建てさせたことになっています。
疫病がはやり宮中の天照大神をトヨスキヒメに、大国魂神をヌナギヒメに託し外に出すことを決め三種神器を分けておくことになりました。しかし人口が半分になるほどの死者を出した原因を占うとオオクニタマの祟りということで、オオミワとオオクニタマ二宮の祭祀を本来の斎主に据えることでことでようやく収まったといいます。
丹波にヒコイマスを派遣しました。ヒコイマスは三野の地を掘り起こし開拓し実りをもたらしたとされており、墓は岐阜県に残っています。ウバイド人の血でしょうか。母はウバツヒメです。
卑弥呼かもしれないモモソヒメが没し、再びゴタゴタがおきます。
河内のハニヤスを討っています。
さらに四道将軍を立てます。孝元天皇の子オオヒコを越国に、オオヒコの子タケヌナガワを関東に、キビツヒコ(ワカタケヒコ兄弟)を西南に、タニハチヌシを丹波に送り治めさせました。ここまで進んでいなかった国内の平定ですが、この時代から本格的に縣主、国造を置き、王朝の所領を広めるべく動き出したということです。北から高志深江国造、久比岐国造、科野国造、知知夫国造、吉備中県国造、出雲国造、石見国造、波久岐国造、阿蘇国造、火国造、波多国造が増えています。

崇神天皇が出雲の神宝を見たいといったため、兄が留守中に弟の飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を渡してしまいました。兄出雲振根は怒りが収まらず弟を殺してしまいます。その兄を崇神の手のものが誅殺し、以降出雲の祭祀は8世紀まで止まってしまいました。この事件が次代垂仁天皇の子どもに祟ることになります。
魏からの使者、多くの異属が渡来してきます。

崇神天皇の時代に食国臣がウマシマチ族から春日族に移動しています。本格的に全国統一に向かう転機となった新時代を表すかのようです。
春日強めになっているのは、ヒコイマスの権力が幅を利かせているからでしょう。
そもそも崇神天皇の母は物部系のイカシコメではないと考えられます。孝昭天皇時代に第一皇子アマタラシヒコが新羅で生まれとして、その子チチハヤ、孫のウバツヒコも大陸で生まれていて濊族の妻を持っていたとしたらウバツヒコの娘のウバツヒメは、皇族と濊族の混血となります。そのウバツヒメは開化天皇との間にヒコイマスをもうけます。ウバツヒメの妹もウバツヒメといい、ヒコイマスの妻とされますがあまりにも不自然で、この妹ウバツヒメがアマタラシヒコとの間に生んだ皇子が崇神天皇なのかもしれません。”ウバツ”という名がこの上なく姥人を想起させるのですよね。春日ーアマノコヤネの系統は、古くからシュメールで活躍していたウバイドとのつながりを強く感じさせます。アクエンアテンとともに日本入りし、大和に帰ってきた種族とみられます。

崇神天皇の時代に入り、天孫族からスサノオ族へ組み換えが起きたのを機に大臣や食国臣の布陣にも変化が生じた時代です。

内宮:ミマキヒメ(孝元皇族オオヒコ娘)トヨキイリヒコ、垂仁天皇生む
内侍:クニカタヒメ(孝元皇族オオヒコ娘)
内侍:トオツアヒメクアシヒメ(紀国造 アラカトベ娘)トヨスキヒメを生む。最初の天照大神の御杖代となる。
大典侍:ヤサカフリイロネヒメ(淡海国造 水之穂真若王娘)
長橋:オオアマヒメ(尾張国造 健宇那比命娘)ヌナギヒメを生む、最初の大国魂神の御杖代となる。

大臣:オオカシマ/アマノコヤネの10世孫、ミカサフミの編集者
食国臣:タケミクラ/春日、アマノコヤネの子孫

第11代垂仁天皇時代

任那の使者が崇神天皇崩御前に朝貢にやってきて、3年後お土産に赤絹を持たせて返したが、これを新羅に横取りされ新羅と交戦状態に入るということがありました。
垂仁天皇の最初の内宮であるサホヒメとその兄サホヒコには不思議な逸話が残っています。垂仁天皇を殺すようサホヒコに依頼されたサホヒメが殺害に失敗し、兄弟が逃げ込んだ家は焼かれて二人は焼死し、その火中で生まれた皇子だけは垂仁天皇のもとに預けられるというこのお話は、作り話とされるのがこのところの多くの解釈ですが、その大げさに脚色された物語の背後に何が計画されたのでしょうか。

垂仁天皇の母は越へ派遣された四道将軍オオヒコの娘ミマキヒメとされます。この姫の名から任那城にいたことが察せられます。父のオオヒコは越にある羅津へ向かう航路を抑えていたわけであり、ちょくちょく行き来していたのかもしれません。大陸の妻との間にできた姫がミマキヒメで、ミマキイリヒコ(後の崇神天皇)との間にできたイクメイリヒコ(垂仁天皇)でした。垂仁天皇が亡くなる直前にマンダリンオレンジとされる「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」を所望したことから、幼少期大陸で育ち日常的に食していた可能性があります。

イクメイリヒコが崇神天皇とともにクメの宮中に入り、ヒコイマスの娘サホヒメを娶ったのです。サホヒメは兄のサホヒコに殉じて命を落とす物語なのですが、サホヒコが謀反を起こしたにもかかわらず子孫は甲斐国の国造に就いています。

サホヒメが生んだ第一皇子ホムツワケはひげが生えるころになっても言葉を話さなかったがある時、鵠(くぐい)を見て話そうとしたので、それを捕らえるために紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越と追いかけとうとう捕まえたということです。ホムツワケはいろいろな場所をめぐり「くぐい」を探しましたが、最終的に羅津航路をもつ越へと導かれます。ホムツワケが探したのは母サホヒメだったのではないかと思えます。

くぐいを捕らえても話さず、占いで「オオクニヌシの祟り」ということがわかりホムツワケは従弟のアケタツノミコとウナカミノミコという二人のお供とともに出雲へ旅をしました。先代が神宝と国をだまし取った形となり、崇神天皇が出雲の神宝を奪ったので、出雲では、大国主神の祀りが途絶えていたのです。出雲でホムツワケは初めて言葉を発したので大国主の宮を造営し、ホムツワケに被った祟り(一説にはアチスキタカヒコネの妻、アズラヒメの祟りとも)は鎮魂されました。この時、鵠を捕らえた鳥取部・鳥甘部・ホムツワケの世話をする品遅部・大湯坐・若湯坐が設けられました。ホムツワケの世話をする品遅部にはともに旅をしたアケタツノミコが任命されます。

それにしても、ホムツワケ専属の部署とは特別扱いすぎる気もしますが、大湯坐・若湯坐を作ることがこの旅の真の目的だったのかもしれません。湯=湯沐邑=金の保管場所が連想されますし。後に特定の皇族に与えられる御名代部のプロトタイプが品遅部だったと考えます。このことだけでもホムツワケが只者でないことは匂ってきます。くぐいを追いかけて巡った土地で黄金を保管したらしきことが伺えます。つまり、ホムツワケは羅津と日本の黄金を縫い合わせる道を開いていたということになります。
サホヒメはおそらく羅津へ逃がされていたのです。「第一皇子が八幡殿に就く」という原則からみれば、ホムツワケがその任に就く決まりであったのです。
ホムツワケは冷え込んでいた出雲との関係を修復します。弟のヲシロワケが皇位に就き、このタイミングで武内宿禰が歴史に登場します。ホムツワケは武内宿禰から見れば親世代になります。

垂仁天皇から5代後に応神天皇時代が誕生します。8万社もある日本の神社の中で一番たくさん建てられている八幡神社の中心的なご祭神で、日本が本格的に国際化を果たした時代の重要な天皇です。イミナはホムタワケ。武内宿禰が幼少期から育て上げた皇です。
「ホムツワケはホムタワケなのではないのか?」と普通に疑問を持ってしまいますね。武内宿禰と同様にホムツワケも第一代目、第二代目、第三代目と引き継がれたとみることができます。ホムツワケの弟である景行天皇の皇子にヤマトタケルがいます。ヤマトタケルの子仲哀天皇の子がホムタワケとされるわけですから、ホムツワケとホムタワケには3世の隔たりがありますが、代々名を継いだとすれば簡単に解決できます。

八幡2代から応神天皇を八幡から迎えるまで迄の流れを追ってみます。

八幡2代 開化天皇第二皇子 ヒコイマス(10代崇神、11代垂仁時代)第一皇子はユムスミ(丹波道主)175-243 八幡御子タケウチ初代誕生
八幡3代 垂仁天皇第一皇子 ホムツワケ初代(12代景行時代)243-303 品遅部開拓、出雲吸収(大陸同通)タケウチ初代が東国へ派遣され、子の巨勢男韓八幡に残る
八幡4代 景行天皇第二皇子 ヤマトタケ(13代成務時代)第一皇子ヲウス(美濃国主)303-363 成務(46才?)と同い年のタケウチ2世が臣の棟梁に就く。
八幡5代 景行天皇第19皇子 ヒコヒトオオエ(14代仲哀、15代応神時代)363-390 390-430 タケウチ2世(73才)が神功の子としてホムツワケ2世を迎える。

「応神天皇は羅津から奉迎した」と落合氏は主張しています。でも、いったいその正体は誰なのでしょうか?
垂仁天皇皇子ホムツワケがホムタワケであるとすると、3世の隔たりがありますが、同じように天皇の血を引いている皇族が名を継いだとするならば別に問題はありません。ホムツワケには子が無いとされているわけですが、あちこちに旅をしていることや、新羅や金官国と社会動静が一致していることが多い出雲との深い関係を鑑みるに、ホムツワケが羅津八幡殿を継いだとしてもなんら不思議はないということが前提としてあります。第一皇子が八幡殿になることが多いですし。
八幡殿を継いだホムタワケが現地で子を生し、ホムタワケ2世をもうけた可能性はあります。
もしも、ホムツワケに子が無いとしても、八幡初代オシマコトの子孫である男系は途切れておらず、孫タケウチの子を羅津に残し、ホムタワケ2世応神天皇として治まることも不可能ではありません。ホムタワケ2世を迎え入れた神功皇后が日本へ帰り、十分に馴染んでから応神天皇王朝は誕生したのです。

ホムツワケは出雲でヒナガヒメと結婚したのですが、彼女が蛇体を現したので逃げたと伝わっています。
ホムタワケの内宮はヤマトタケルの兄弟である五百城入彦皇子の孫娘の仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命)になっています。前後を逆にすれば日中売命ですよ。結婚相手の名すら似ています。

謀反を起こしたにもかかわらずサホヒメもサホヒコもお咎めなしで、ちゃんと甲斐国造に収まっています。大げさな物語を作ってまでホムツワケに注目させる必要がどこにあるのか見当がつきません。悪目立ちすぎるホムツワケと、日本で一番多い八幡のご祭神ホムタワケの対比はとても鮮やかです。初代カムヤマト王からはじまり、満を持しての日本運営の本格始動ということなのでしょうか。

内宮:サホヒメ(ヒコイマス娘)ホムツワケを生む
内宮:カバイツキヒメ(山城国筒木県主娘)ヤマトヒメを生む。天照大神の2代目御杖代。天叢雲剣を東征に向かうヤマトタケルに渡した。崇神天皇が見たいといった出雲の神宝とは5つの神宝ともいわれるが、これのことか?天叢雲剣はクニムケの剣。これを奪われた出雲国が祭祀を行えなくなった心情は想像に余りある。ちなみにホツマツタヱには叢雲剣を天照大神に献上した話は一切ない。
内侍:カクヤヒメ(山城国筒木県主娘)
内宮:ヒハスヒメ(ヒコイマス孫)ニシキイリヒコ、景行天皇、オオワカヒメ、ワカギニを生む
典侍:ヌハタ二イリヒメ(ヒコイマス孫)
内侍:マトノヒメ(ヒコイマス孫)
内侍:アサニイリヒメ(ヒコイマス孫)
内宮:カマハダトベ(山城大国郷主娘)
?:カリハタトベ(山城

大臣:オオカシマ/アマノコヤネの10世孫 ミカサフミの編集者
食国臣:タケミクラ/春日、アマノコヤネの子孫

呂不韋の環日本海勢力づくり計画

はじめて中華の国々を統一した秦の始皇帝を誕生させた功労者は呂不韋でした。他国の捕虜となっていて放置されていた王子を探し出して秦の王位に就け、その王子として始皇帝を生み育てたのです。呂不韋は紀元前239年に『呂氏春秋』を完成させたあと失脚して歴史から姿を消します。

一方徐福が日本へ出航したとされるのは紀元前219年と紀元前210年です。呂不韋が紀元前280年ぐらいの生まれとすると、この時60才ちかくになっています。
徐福の出資者は始皇帝とされていますが、実際には呂不韋がお金と船と3000人の職工らを用意したのではないでしょうか。そして「徐福」として呂不韋自身も日本へ渡ったのです。その場所が今後の展開に必要不可欠な要所となる、若狭湾だったのです。

出雲口伝によると、徐福は最初スサノオと名乗り、二度目にはホアカリを名乗って王族と婚姻関係を結び、三度目にはニギハヤヒを名乗ったと伝わっています。何度か訪れて日本で王国を築こうとしていたということですが、徐福とは一人の個人ということではなく「徐福一派」「徐福族」と考えれば合点がいきます。徐福一派が日本で構築した倭人海部族が丹波にもともといた縄文海人族を吸収し、新羅に潜入して王となり、日本の皇統を奉迎し、金官国を建て、羅津を開拓します。その間に日本に先進技術を導入して文明化を推進するとともに国内統一を推進し、応神天皇の時代に本格的な国際化を進めました。

呂不韋が世に出た時代、中央アジアではスキタイが活発で、アムダリア川周辺にいたソグディアナを征服していました。ソグド人(胡人)は中華の国へも逃げ込んだのです。その時中華では戦国時代の真っただ中にありました。力あるもの、知恵あるものによる下剋上は普通に起きていただろう乱世でした。呂氏一族はソグディアナからの移民で呂不韋は商人として力をつけていきました。紀元前280年代から存在感を現し始めていた秦に入りこみ紀元前249年には秦の宰相となります。呂不韋は始皇帝を立て秦の中華統一を成し遂げました。その後あっさりと中華を離れるのは、東の国へいき国を建てる計画があったからです。

Y染色体の遺伝子情報からわかる神武 崇神 応神

ウラルトゥーアララト山に根拠を持つ狛族の王族が神武天皇となり系譜的に現在の日本人の祖となりました。予想される狛族の遺伝子は「C系」か「O2系」です。C系は日本人の約1割が属します。シベリアを通って北方から12000年前に列島に入った人々で、日本で「C1a」が発生しています。
エラムースサの王に根拠があり濊族の母を持つ王子が崇神天皇となりました。予想される濊族の遺伝子は「O1b」です。このグループは日本人の約半数が持っています。いわゆる倭人は「O1b」グループで2800年前ごろから大陸から大量の人々が移住しており、その人々の多くは「O1b」だったといわれています。古くから九州北部に国を作っていた人々や大陸から渡来して日本に様々な分野の先端技術を伝え戸籍を持った人々です。華北や満州の人々は「O2型」とされています。

日本人の約4割を占める「D1a」は、38000年前から列島で発生した縄文海人族であるということです。現在の日本では九州やアイヌが色濃くD遺伝子を受け継いでいます。世界的にみてもチベットやアンダマン諸島にみられるだけの数少ない遺伝子です。朝鮮半島を飛び地にしていた関係で朝鮮半島に4%程度の「D1b」が残っているようですが、日本の本州で35%が残っていることから比較しても、大陸の群雄割拠のなかでの遺伝子の生き残りがいかに難しいかがわかります。

「D系」が生まれたのは5万年前。その前段階の「DE系」は7万年前に分岐しています。「E系」を色濃く持つのがヘブライの民であり、北イスラエル十支族の中のエフライム族とマナセ族だけは「D系」を持っているという説があります。「D系」をもつエフライム族のニギハヤヒは日本へ帰還し、日本の「D系」を補強したという見方もできるかと思います。遺伝子というものは人の性格に色濃く影響します。そして、遺伝子の動きをみるとまるで遺伝子そのものが意志を持っているかのように突然変異などを起こすのは不思議なことです。DNA観点からの意図があるとして、それは何なのでしょうか。

38000年前 D系が日本に入りD1bが日本で誕生。
16500年前 D系縄文人により日本列島で集落設営。13000年以上もの戦乱のない世を生きる。
12000年前 C系が日本に入りC1aが日本で誕生。ブリヤート人、姥人が日本移住。
12000年前 スンダランド海没、縄文海進始まりD系が海路で世界への進出を始める。「惰眠をむさぼらず変化せよ」「文化文明を発展させよ」との啓示か?
7300年前 鬼界カルデラ噴火により九州は壊滅し1000年人が住めなくなる。この時にアララト山、崑崙山、エラムに三貴神がおり、豊穣なシュメール地域で文明が勃興。
3400年前 エジプトのD系が姥人と共に日本に舞い戻る。
3000年前 佐賀県で日本最古の水耕稲作。中華南部からO1bが日本に入る。西アジアから東南アジアを経由して軍備した商船が日本へ。彼らはコロニーを各地に設ける。
2800年前 インド東北部からO2が日本に入る。アーリア人に追われたドラヴィダ族か?そのころの遺跡といえば新潟や富山に集落が見られます。O2系は全国的に2割程度と平均的なので到着してから全国に散ったと考え、出雲王朝の黎明は新潟(越)説もあるかも。福井から新潟にかけての地域はアワナギの管轄地域でカンミムスビが白山神として統治していたところ。カンミムスビと出雲に深い関係があるのは当たり前といえるのかも。するとアワナギの息子イサナキはO2系統なのか?
2400年前 中華の戦国時代に九州などに逃れて定着した人々は「O系」。
2200年前 秦から徐福(呂氏)が3000人を連れて移住。秦の始祖を辿ると瞬の配下であった。洪水調整を助けたり、馬の飼育を得意としているところから、姥人やスキタイの血が流れており、呂不韋や秦王族の祖地はアムダリア河口あたりであり「C系」なのではないか?秦人全体は「O系」で、徐福とともに日本に帰還したのが「D系」エフライム族。
2000年前 狛族神武天皇朝。「C系」か「D系」が世界情勢を見、経験を経て、満を持して日本に帰還。シュメール・エジプトから文明を発達させる時、王位争いに明け暮れ、簒奪支配と差別される被支配者が生まれた。西アジアを次第に砂漠化させた。皆平等で戦乱のない世と帝国主義と科学時代を経験し、文化文明を正しく発展させる文明実験が日本で始まった。朝鮮半島南部と九州や中国地方で「倭国の乱」を経て、越国以南を含む地域で王朝を確立。日本に黄金基地を設置するため、全国調査をして計画を立てた時代。
紀元2世紀 騎馬系濊族崇神王朝。「O1系」が日本へ流入。極東の黄金基地を文明実験国日本へ移管する手続きの時代。戦乱慣れ、帝国支配慣れした人々の主導で血なまぐさい王位継承争い、権力闘争が始まる。黄金基地を日本へ移管するにあたり、防衛武力や政治的に対抗できる国へと移行しなければならない。日本の黄金基地運営をシュミレーションする時代。
紀元4世紀 古墳時代。騎馬系スキタイが羅津のホムツワケ応神天皇とともに日本へ帰還。黄金基地の日本移管を実行するにあたり、傭兵としてのスキタイが随行した。

応神天皇以降の「黄金管理者」はどうなっているのでしょう。
応神天皇第三皇子 ヌカタノオオナカツヒコ(16代仁徳、17代履中、18代反正時代)-427 -433 -438 
允恭天皇第一皇子 木梨軽皇子(19代允恭時代)-480
履中天皇第一皇子 市辺押磐皇子(20代安康時代)-483
継体天皇第一皇子 勾大兄(27代安閑天皇 広国押建金日命)431-536 
欽明天皇第一皇子 箭田珠勝大兄皇子(30代敏達時代)572-585
敏達天皇第一皇子 押坂彦人大兄皇子(31代用明時代)585-587
欽明天皇第四皇子 大兄 用明天皇 -587
厩戸皇子第一王子 山背大兄王(34代舒明時代)629-641
舒明天皇第一皇子 古人大兄王(36代皇極、斉明)642-661
舒明天皇第二皇子 中大兄皇子 38代天智天皇 668-672 

黄金管理者といわれる「オオエ」の名は全部で8名続いたということです。

世界に対する防衛力と外交を積み上げた応神天皇以降

羅津から迎えたホンダワケのイメージは「八幡を従え黄金を積み込んだ宝船の舳先に立つ応神天皇」です。
八幡と黄金を日本にもたらしたのです。
八幡とは騎馬スキタイ族と縄文海人族により構成されていますから遺伝子としては「C系」と「D系」です。この集団が4世紀頃日本へやってきて古墳を築いたのです。

そのおかげで権力闘争や戦乱に明け暮れる世が1000年以上続きます。麒麟が現れて日本列島の「祭祀・天皇と政・将軍の役割分権」という統治法を確立したのが江戸時代だったのかなと。
その1000年のうちに大陸・ヨーロッパにおいても「バチカンによる安堵」という統治法を確立していきました。世界にはバチカンの勢力の及ばない地域が山とあり、ヨーロッパ諸国が大航海時代をはじめて、早い者勝ちとばかりに世界の植民地化に乗り出したのです。
江戸時代までに相当に武力を鍛え、精神を磨き、文化と学問を積み上げていた日本では、バチカンと武力のセットで押し寄せる力に対抗していました。

今もあくなき苛めと侵略の手を緩めない残党がありますが、一方で「D系」は受容吸収包括の性質を発揮して侵略者さえ受容吸収し、歴史を紐解いてほぐしもともとは一つなのだと取りまとめていこうという機運が生まれています。

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